瀬戸蔵ミュージアムの「生産道具展示室」でもってやきものの生産過程をたどっておりましたが、いよいよ焼成、最終段階ですなあ。

 

焼成はやきものづくりで最も重要な工程です。なぜなら、土や顔料、釉薬は、火で焼くことにより化学変化が起こり、はじめて「やきもの」とよべるからです。
やきものは、焼成中の炎や空気の加減により、その仕上がりに大きな変化があるため、焼き方にさまざまな試みが行われています。焼成を行う窯炉の、その立地や構造、燃料に工夫が重ねられて、時代とともに劇的な変遷・発展を遂げました。

解説に「さまざまな試み」とありますが、単に焼成の温度ひとつとっても出来上がりには土器、陶器、炻器、磁器と違いがでるわけで、高い温度で焼くというのも先人たちの工夫の賜物なのでありましょうね。

 

 

ただし、とにかく高温であればいいということでもないわけですから、窯の中の温度がどのくらいになっているのかを見極めるのも陶工たちの熟練の技であると。明治期以降は1000℃以上にも対応できる温度計ができたようですが、それ以前には「炎の色、出方を見て判断する」、「イロミという、顔料や釉薬の見本を入れて発色具合や溶け具合を確かめる」という方法が伝統的に行われていたそうですから。

 

でもって、やきものを焼くための焼成室となるのが「窯」でありますね。これまた、歴史の中でさまざまな工夫が凝らされてきたわけで。ま、そこには中国大陸・朝鮮半島の先達から知識を得たこともたくさん含まれておりましょうけれど。

 

 

古いところから見ていきますと、こちらの「窖窯(あながま)」は「古墳時代中頃から須恵器を焼成する窯として日本で導入され」とあります。思い返せば、大阪・高槻市に訪ねた史跡新池ハニワ工場公園にずらり並んでいたのはこのタイプかと。この窯があって、古墳にはたくさんの埴輪を立て回すことができたのでしょう。

 

 

「大窯」と呼ばれるだけあって、「窖窯」に比べて焼成室が大きくなっています。対象生産向けとも思うところながら、「燃焼ガスの圧力を高める工夫もみられ」るというあたり、やきものの進化と大いに関わるのでありましょうね。瀬戸に来る前に立ち寄った岐阜・土岐市の織部の里公園には大窯タイプの窯がいくつか発掘されていたのでしたっけ。織部の里では、発展形として九州・唐津から得た技術で造られた初期型の「連房式登窯」もありましたなあ。

 

 

江戸時代の終わり頃には、瀬戸の連房式登窯は、陶器焼成用の「本業窯」、磁器焼成用の「丸窯」、小型磁器等を焼く「古窯」という3種類に分化していた…と解説されていたものの、「古窯(こがま)」は瀬戸染付工芸館で、「本業窯」は瀬戸民藝館で実物を目の当たりしましたが、「丸窯」もどこかしらで見かけていたでしょうかね…。

 

 

 

 

いずれも似た形でその大きさでしか違いがつかめないところながら、単に土地の制約で大きな窯が作れないといった理由だけではない使い分けがなされていたのでもあろうかと思ったものです。

 

ともあれ、これらの窯でもって焼成には、化学反応の結果を予測しつつ行うことになるわけですな。釉薬などを施した結果として発色がどうなる…といったあたりは予想通りにいかないこともままあったことでしょう。ですが、きっちり予測しなくではいけなかったことは器のサイズの点ですかね。要するに、焼成後は器がしまって小さくなるわけで。

 

 

例えばこちらの馬の目皿(瀬戸を代表する図案であると)でも、焼成前(左)と焼成後(右)では明らかに縮んでいるのが分かりますものね。もっともこの縮みについては、どのくらい縮むのかを見越して予めのサイズを決めるという長年の積み重ねができているのでしょうけれど、それでも焼成温度などをきちんと管理しないと結果が変わってもこようかと。

 

窯の大きさにもよりましょうが、場合によっては「窯づめからカマオコシ(窯出し)が終るまでに1カ月余りの時間を要することがあ」るようで、火を入れているときには専門職人「通常4人が頼まれ、2人1組で1つの焼成室(ひとつの窯ではなくして)を担当し、焼成室ごとに交代で作業を行い」、「交代している間に食事や仮眠をと」ることになるとは、実に実に大変な作業でありますなあ。

 

てなことで、ようやっと瀬戸蔵ミュージアムのワンフロア分を振り返ることができました。話が長くて恐縮ですが、上の階にも展示がありますので、瀬戸蔵ミュージアムのお話はもう少し続きますです、はい。