ということで、大阪・高槻市にある今城塚古墳(とお隣の茨木市にある太田茶臼山古墳と)を見て来たわけですけれど、祭祀場を模した形で大型の埴輪がたくさん並べられておりまして、また今城塚古代歴史館の展示を見ても、相当に膨大な量の埴輪が用いられたことが分かるのですね。

 

 

 

で、解説パネルに「巨大古墳の埴輪生産」と見えておりますが、今城塚古墳に(先んじては太田茶臼山古墳の方でも)使われた埴輪の生産を一手に引き受けていた窯跡が史跡公園となっているのであると。やはり貸し自転車を走らせて行ってみるのでありましたよ(実際経路としては今城塚から太田茶臼山へと向かう途中、ちと迂回することになりますが立ち寄りました)。

 

 

入口には「史跡新池ハニワ工場公園」と。高槻には大きな工場が多くあります(高槻市駅まで戻る際、国道171号沿いに並んでおりましたなあ)が、古墳時代の昔から工場が置かれていたとは(笑)。

 

 

入口部分ではうかがい知れないところながら、奥へと進みますとなだらかな傾斜地が続いておりまして、埴輪を焼成するための登り窯を設けるのに打って付けの地形であったのですなあ。もちろん、近くで粘土も採れ、こねるに必要な水もあり、焼き上げる際の木材調達も容易と、あらゆる点で好立地だったようで。

 

 

それにしても窯跡がずらりと並んでいるようすから、さぞかし大きな埴輪工房であったことでしょう。稼働していたのは100年間くらいだそうですが、現地の解説に曰く「全部で18のカマができ、あわせて数万本のハニワを三島古墳群だけでなく、大和地方などの古墳へもおくりだした」ということでありますよ。

 

 

現在進行形で発掘が続けられているようですけれど、公園のいちばん奥側には窯のようすを解説する施設「ハニワ工場館」が設けられておりました。

 

 

 

「18号ハニワ窯」と呼ばれるこの窯は530年頃に築かれたものとか。「全国数十遺跡から300以上みつかっているハニワ窯のなかで、大王の古墳のハニワを焼いたことがわかっているのは、唯一ここしかありません」とは、自慢の史跡なのでしょうなあ。

 

 

造られた当初の床面と最後期の床面では結構な段差が出来ている…ということはそれだけたくさんの埴輪を焼いた結果として、床面が持ち上がっていったのでもありましょうかね。窯の底からは数々の埴輪の断片が出土し、また当時の工人が入れたであろうスコップ跡も残されておりましたですよ。

 

 

と、窯の上部、台地上のところには2棟の作業場が再現されておりました。内部は広々、80畳敷きくらいの大きさだそうで。

 

 

 

中では工人たちがせっせと埴輪作りに精を出していたことでしょう。太田茶臼山古墳からも今城塚古墳からもちょうど同じくらいの距離にあるこの遺跡、年代的に早くは太田茶臼山に、後には今城塚にたくさんの埴輪を供給したことでありましょうね。いずれにせよ、古墳の場所まで運び込むのは大変だったろうなあと。何せ大きな埴輪で形が複雑なものが多かったわけで、そんなところの苦労にも思いを馳せたものでありましたよ。