愛知県瀬戸市の瀬戸蔵ミュージアムを訪ねた…というお話はその入口にたどり着いたところで、しばし滞ってしまいましたですが、いよいよもって中へと誘われてみることにいたしましょう。

 

 

一歩足を踏み入れると、そこには映画スタジオのような雰囲気が漂っておりまして(例えば『今夜、ロマンス劇場で』とか)、横溢するのは昭和レトロ、いやそれ以前の大正レトロとでも申しましょうか、何やら懐かしい(といって、大正を知るはずもないですが)町の香りまで感じられそうでありました。その中でひと際目立っておりましたのが、こちらの建物でありますね。

 

 

今は名鉄瀬戸線となっているかつての瀬戸電気鉄道(せとでん)の尾張瀬戸駅舎を再現したものですが、個人的にはこの建物を見て「あ!昔の映画館?!」と思ったりも。明治38年(1905年)の開業時には木造駅舎だったものを、大正14年(1925年)に鉄筋コンクリート造で2代目駅舎として建てたのが、この建物であると。

 

待合室内には「せとでん」と駅舎に関するあれこれの展示がある上、改札の先には本物の車両が置かれてありましたですよ。1978年まで現役だった車両だそうです。手動扉の電車がその頃まで走っていたのですなあ…。

 

 

 

ところでこの「せとでん」ですが、当初の目的は貨物輸送、「せともの」の製品輸送にあったわけでして、その点では多治見のモザイクタイルミュージアムで解説を見かけた笠原鉄道と趣旨を同じくするものでありましょう。さりながら笠原鉄道の開業が1928年ですので、大量輸送の渇望は瀬戸の方が圧倒的に早い段階からあったというべきなのかも。なにせ「せともの」の供給地ですものねえ。

 

鉄道輸送の要望はすでに、中央線(中央西線)が信州・塩尻と名古屋を結んで敷設される計画が進む中、そのルートに瀬戸が入るよう、明治25年(1892年)段階で大々的な誘致運動が行われたことに現れていたような。この念願は叶わないわけですが、それでは予定ルートと瀬戸結ぶ結節点として想定した大曽根と瀬戸の間の鉄道を自前で作ってしまえとしてできたのが「せとでん」であったと。

 

ただ、瀬戸の人たちの動きが余りに速かったのか、「せとでん」が走り始めた頃はまだ大曽根に中央線の駅は設けられておらなかったようで(駅の開設は1911年)。駅が無ければ列車は停まらず、貨物の積み替えはできませんが、瀬戸の人々は決してめげることがないのですなあ。「せとでん」を大曽根から先に延伸し、名古屋市内の堀川に通じてその舟運により名古屋港へと荷を積み出す方法を考える。考えただけでなく、即実行に移して1911年には開通させてしまったというからあっぱれです。

 

奇しくも開通の半年ほど前、中央線の大曽根駅が開業した結果、瀬戸から製品搬出は、大曽根駅で中央線に積み替えて名古屋駅へ、堀川で船に積み替えて名古屋港へという2つの経路を使えるようになったとは、作れば作っただけどんどんと送り出すことができたのでありましょうなあ。そんな製品送り出しのための集積場のようすも駅舎の傍らに再現されておりましたですよ。

 

 

 

梱包材の木箱にも、そして製品そのものにも横文字が見て取れますけれど、国内需要に応えるばかりでなしに海外への輸出品もまた多々生み出されていたのであるということなのですな。

 

 

てなことで、輸送路を確保した瀬戸のやきものは国内はもとより世界の隅々まで行き渡っていった…となりますと、「せともの」と言ってすぐさま安い茶碗を思い浮かべるところながら、その実は「世界のせともの」だったのですなあ、ふむふむ。