岐阜県多治見市のモザイクタイルミュージアムを訪ねて、展示内容のお話を引っぱってしまいましたですが、4階から順々に階下へと振り返っていくことにいたします。最上階の4階は「数多のタイル製品で彩られる空間」とだけ記したところながら、使ったことのある世代の方ならば即座に銭湯を思い出すのではなかろうかと。ま、銭湯に裸婦像はなかったろうとは思いますが…。

 

 

個人住宅向けと思しき浴槽も壁際に並んでおりまして、いずれもカラフル。さらに浴槽の中までカラフルさがある凝りようでありましたよ。

 

 

ただ、このあたりの展示物は(もちろん図柄などの違いはあるも)予て江戸東京たてもの園のタイル展でも見たところですので、いささか足早に3階、「タイルの製造工程と歴史の展示室」へと下りていきましょう。

 

 

タイルそのものの製造史は、やはり江戸東京たてもの園の展示でさらっておきましたので、ことこのエリアとの関わりを見ておこうかと。ずいぶんと端折って明治の話になりますが。

明治43年(1910)、常滑の伊奈初之丞が、「陶製モザイク」と名付けられた、石膏型で作った八分角の試作品を発表します。第一次大戦後の衛生思想の普及により、浴室などの床面に張るモザイクタイルが量産されます。そして笠原の山内逸三が開発した施釉磁器モザイクタイルは、衛生的な床用の建材から水回りを彩る装飾へと、モザイクタイルの用途とイメージを一新させました。

そも同館HPで見かけた「施釉磁器モザイクタイル発祥の地にして、全国一の生産量を誇る多治見市笠原町」というひと言に、「常滑は?」と思っていたところながら、彼の地で作られたのは陶器であって、今に繋がる磁器タイルは笠原だったのですなあ。なるほど発祥の地ということになるわけで。ただ、施釉モザイクタイルの量産化は昭和10年(1935年)まで待たねばなりませんが、その間にも多治見には次々とタイル製造に取り組む事業者が増えていったようです。

 

 

すでにあった素地に加えて量産化が可能になったことで、「それまで主に茶碗を製造していた笠原の人々は、徐々にモザイクタイル製造へと転換してい」ったということですが、その間にも原材料の搬入や製品搬出のために、笠原と多治見駅を結ぶ「笠原鉄道」という鉄路が設けられていたそうな。昭和3年(1928年)に開業し、昭和53年まで半世紀にわたり活躍していたということでありますよ。

 

 

ちなみにこちらは笠原鉄道の笠原駅構内にあった売店のショーケースであると。当然にしてタイル張りですな。ケース内にはスプーン、ナイフ、フォークからおろし金に至るまで陶製品が並んでいますけれど、当時から商品見本のような形で並んでいたのでしょうか。本来はいかにも駅の売店らしくおせんにキャラメルあたりが置かれてもいたような気がしないでもないですが。

 

戦後復興から高度成長期、大きな建物が続々建てられた時期には、さぞや大きなタイル需要があって笠原はせっせとこれに応えてきたのでありましょう。確かに需要は大きくとも同業他社と鎬を削る状況もあったでしょうから、各メーカーの営業マンはこんな商品見本を持って飛び回っていたようで。

 

 

あいにくと言いますか、昭和47年(1972年)段階でモザイクタイルの国内消費は減少に向かったと。さりながら、各社の競合する中で培った技術力とでも言いましょうかね、それが発揮されていくところでもありましょう。タイルと聞いて、またこれまで見てきた昔の製品などから思い浮かべるのはひたすらにレトロな印象ですけれど、そうではないタイルとその使用例がさらに階下の2階に見られるのですが、そこはそれ、歴史の話にかまけて製造過程にも触れておりませんでしたの、それと併せてまたの機会ということで。