何やらついつい書きはぐれてしまうことがあるもので。ふと思いついてみれば、出かけたのはこんな時季だったのでしたか…。

 

 

この暑い最中に桜の写真とは季節外れ感満載ですけれど、4月半ばから4カ月近く放りっぱなしになってしまっておりました。出向いたのは「桜の名所」として知られる小金井公園の中にある江戸東京たてもの園でありましたよ。

 

 

「1940年(昭和15)に皇居前広場で行われた紀元2600年記念式典のために仮設された式殿」であるという「旧光華殿」が異彩を放つエントランスになっておりますが、これを抜けた先にあれこれの復元展示物が…とは、しばらく前に「ぶらり江戸東京たてもの園探訪」として書いたところでありなすなあ。ですので、今回の訪問は開催中の特別展を覗くためでして、会期が長く、8月になった今でも開催中ということに勇気づけられて?、思い出したところで振り返ってみようと考えた次第です。

 

 

で、開催中の特別展は「日本のタイル100年 美と用のあゆみ」というもの。先に国立天文台のところで触れたスクラッチタイルといったあたりも、しばらく前に愛知県常滑にありますINAXライブミュージアムを訪ねたりした興味と繋がるところでありまして、タイルの歴史を垣間見ることにしたわけなのですね。展示の中には、INAXライブミュージアムからの借り物もあったりしましたですよ。

古代エジプトが起源とされるタイルは、その耐久性と汚れを落としやすい特性から世界各地に広まり、日本へも様々な地域を経由して伝わりました。そして伝来の経緯から様々な名で呼ばれていたこの薄板状のやきものは、西洋建築の隆盛や生活様式の変化により需要の高まる1922年(大正11)に統一して「タイル」と呼ぶことが定められ、以降、地震や戦争などの大事を経ながら、暮らしや都市の変化に合わせた日本のタイル文化が花開きます。

…とフライヤーにありますですが、「日本のタイルの源流をさぐる」ところから始まる展示を順に見て行くことにいたしましょう。

 

 

そも、現在「タイル」と呼ばれるものの語源は「物を覆う」という意味のラテン語「テグラ=tegula」から来ているそうな。当初から建材として使用されるものと認識されていたことになりますかね。タイル(の類似品)が日本に伝わるのは「6世紀に仏教とともに「瓦」が伝来して屋根材として普及」するところから始まるようです。

 

 

洋風タイルの伝来は「明治期に、外国人建築家が西洋建築と共に伝え、輸入タイルが玄関床や暖炉周りで用いられた」ことにあると。文明開化期のさまざまな品々同様、輸入頼みであったところに国産化が求められ、国内生産としては瀬戸と淡路島が嚆矢のようですな。

 

大正時代ともなりますと、庶民生活でも欧米化志向の動きが出、またスペイン風邪の流行などから衛生意識が高まり、「水回りや床へのタイルの導入が進んでい」ったのであると。なにせタイルは「水や火に強く、腐食しにくく汚れを落としやすい特性」がありますのでね。

 

 

ちなみにこちらは1922年(大正11年)の伝染病啓発ポスターということですが、100年経っても頼みの綱は「マスク」なのですなあ。一方、生活の欧米化を「生活改善」とする動きは、1919年(大正8年)に文部省(当時)が「生活改善展覧会」なるものを開いて、庶民に意識づけを行ったそうな。

 

 

しかしまあ、その展覧会のポスターがなかなかにすごいものですなあ。下の「家庭の改良は先ず台所設備から」の方は右上に見える薄暗い土間といった旧来型の台所から明るくすっきりとまとまった台所へと、火まわり、水まわりを代えて衛生にも配慮しましょうということでしょうけれど、上の「今少し文化設備に親しめ」とは、「お怒りですなあ、文部省」という感じ。右側では着物に日本髪の女性が西洋便器の上に乗っかってしまうというのは、当時にはままあったことなのかもしれませんですが、個人的には(話の流れと無関係ながら)川崎のぼるの漫画『いなかっぺ大将』を思い出してしまったり。

 

花の東京へ出てきた大ちゃんこと風大左衛門が、下宿先の大柿家(要するにキクちゃんのうち)を初めて訪ねたときに、洋風のバス・トイレを見て、それぞれを取り違えて用を足すというシーンがあったのですなあ。青森から出てきた大ちゃんがことさらに田舎者であると強調する場面でもありましょうけれど、青森をしてテレビもラジオも何にも無いことを自虐的に歌った、吉幾三の『おら東京さいぐだ』とも通するような。昭和の後半になっても、東北青森への視線はそんなふうであったのでしたか…。

 

と、すっかり余談が長くなりましたところで、身の回りでごくごく普通にタイル貼りを見かけるようになっていく時代の到来、そのあたりは「後半へ続く」ということで、ご容赦くださいまし。では、次回。