瀬戸蔵ミュージアムを訪ねて、あれこれとやきもの関係のことを書いております折も折、市の公民館で開催された文化・芸術講座が「もっとやきものを楽しもう!-鑑賞のポイント-」というものでしたので、先日覗きに行ってきたのですね。話の中には知ってること、知らないことが混在しておりましたですが、ひとつその後につらつらと考えを巡らしてみるようなことがあったもので、その辺りを含めて、振り返りをしておくといたしましょうか。

 

2週連続の講座で、初回は縄文土器から始まって桃山茶陶あたりまでをざっくりと展望したようすながら、これはインフルエンザで寝込んだので出かけられず残念至極。聴いてきた2回目は江戸期以降近代にいたる部分でしたので、まずは伊万里焼の話から始まったのですな。なにせ、日本に磁器が誕生した画期でもありますのでね。

 

知ってた話として、伊万里焼とは「伊万里という土地で焼かれたやきものではない」ということでしょうか。山間にある佐賀県の有田などで造られた製品を有田川の舟運でもって積出港たる伊万里津に送り出された。要するに、伊万里焼というのは伊万里津から各地に渡ったやきものの総称ということになるのであると。ときを経て、有田で焼かれたやきものはもはや「有田焼」と言われるようになっておりますので、要するに「伊万里焼」はある時代の一時期のものでしかないわけで、今となっては(何しろやきものの産地ではありませんから)新しい伊万里焼といったものは無いということになりましょうか。

 

とまれ、そんな伊万里焼、つまりは磁器が日本で生み出されるようになった背景としては、秀吉が朝鮮出兵を行った際、(すでに磁器生産をしていた)朝鮮半島の陶工たちを日本に連れてきてしまったということがよく挙げられますですね。そのこと自体は江戸以前の話ですけれど、技術を持った陶工がいてもすぐさま磁器生産に至らないのは材料の問題ですな。有田の泉山に磁器の材料が眠る磁石場が発見されて初めて、磁器が作られるようになる。江戸初期の1610年代から40年代くらいのものを「初期伊万里」というそうですが、分かりやすい特徴としては「高台径が小さい」のであると。このこと自体が朝鮮半島の技術由来を示しているそうな。

 

ですが、17世紀中頃になりますと「盛期伊万里」と言われるようになる製品に移り変わっていく。これは、明末清初の動乱にあたり、とても中国でやきものなどやっておれないとして日本に渡って来た景徳鎮窯などの中国人陶工によって技術移入が為された結果であるようです。特徴は初期伊万里と比しても明らかに高台径が大きいというのがありますけれど、皿の見込みに施される青花(日本では染付と)による意匠の違いはかなり歴然かと。時代差はあるにしても、初期の方は見るからに素朴、盛期の方はもはや青花技法は爛熟の域といった印象です。なにせ、中国では14世紀の元の時代に完成していたという技法ですものね。

 

伝統が積み重ねられているだけに、中国由来の青花を模した日本の伊万里焼の染付は洗練の極みにも到達するわけですが、器の形から文様に至るまで全てに隙が無いような完成形が珍重された一方で、例えば「へうげもの」と称された織部焼のような、いびつさをこそ個性とするやきものの類が全くもって忘れ去られてしまったわけでもなさそうなのはどうしたことか。この点に触れて、歪んでいたり、割れたり掛けたり、釉薬がまだらに流れていたり…とこうした不完全、言ってみれば失敗作とも思しき作品を面白がるのは、美意識に対するお国柄の違いてなことでありましたなあ。

 

 

対称性にこそ美を見出す中国に対して、非対称にも(だからこそ?)独自の価値を見出す日本の違い。これを「うつろい、変化するものへのまなざし」、「湯れうごっく不定形の美という価値づけ」てなふうにも、講座では説明にありましたっけ。で、ここでつらつら考えたわけですけれど、そもそも何だっていびつを愛でることになるのであろうかということなのですなあ。

 

で、数日にわたり考えたところ(とは大げさながら)、はたと思い至ったのは要するに「余白」であるかということでして。器の形も文様も「完全」に作られたものは確かに整った美が感じられるものの、いずれにしても見たままそのままで完結しておりますな。もちろん、作り手の側の意識としても完結した美をそこに見出してもらおうとして作っているわけですし。

 

さりながら、いびつなものというのは作り上げられたものだけでそこにある(であろう)美は完結していないような。見る側(使う側)がむしろ自由な見立てによって想像を広げる余白がそこにはあるように思うのですよね。作り手としても「自らこれだ!どうよ、美しいだろう!」という決め打ちを目指すのでなくして、どんな想像が飛躍していくのかを楽しみにしてほくそ笑むといったところなのかもです。

 

そんなことを考えてみますと、いわゆる「曜変天目」として珍重される中国・宋時代の茶碗が知られている限り、日本に3点しか現存しないというのも、受け止め方の違いによるのかもと思ったり。中国では窯の中で想定外の変化が生じたものは失敗作として打ち捨てられ、元々数が少ないところ、わずかに残ったものが日本人の見立て意識に適うものとして移入され、辛うじて数点が伝えられた…てなふうに。

 

余談ですが、佐賀鍋島藩が藩窯で独自のやきものを発展させますけれど、これの用途はもっぱら将軍家や幕閣その他大名家などに、季節ごとに贈られる贈答品であったというのは「へ?そうなの?」と。今では季節の贈答として中元、歳暮も廃れつつありますけれど、お江戸の時代は一年の中で節句の折やそのときどきにお国の特産品を贈る風習があったということで。

 

この点、この贈答のそもそもが各藩の側から付け届けとして自発的に始まったのか、お上の側から(いわばこれも参勤交代のように大名家に財政逼迫を強いる材料として)求めたものなのかは詳らかではありませんけれど、佐賀藩でいえば年間総計何万点にも及ぶやきものを作り続けなくてはならない(しかも、常に特徴あるものとして受け手を喜ばせなくてはならない)となりますと、幕府の思惑に各大名が踊らされて、また見栄があるものですから競い合うようなことになったのかも。結果としては藩財政を逼迫させるとなれば、幕府の思う壺ですしねえ。

 

とまあ、思い巡らす側はいかようにも想像して、面白がったりすることになったやきもの講座なのでありましたよ。