信州下諏訪宿をぶらりとして、先に問屋場跡といったところは見たわけですが、宿場に必ずあるものは当然に下諏訪宿にもあることになりますな。例えば、本陣とか脇本陣とか。でもって、下諏訪宿の本陣は代々続いて二十八代目の現在に至るという岩波家が、今も築220年となる建物を受け継いで、屋敷の一部を公開している…ということでしたので、覗きに立ち寄った次第です。
まずもって目を引きますのは、玄関先に並べられた看板の数々(「関札」というらしい)ですなあ。参勤交代などの折、中山道を通った大名家では「この本陣に我が殿がおわす」と宣言するため、本陣の門前と宿場の入り口に看板を掲げたようで。今でも温泉宿では「○○ご一行様」などという札が並ぶのにも似て。
ただ、今では温泉宿の側が「歓迎」の意を込めて並べる、つまり宿の方で用意するところながら、こちらの看板は大名家自前であるのだとか。参勤交代は大名家に散財させて力を削ぐための幕府施策ですのでね。しかも、大名家は大名家で格にこだわるというのか、見栄っ張りが多いのか、そのあたりが看板の大きさにも出ているようで、妙味深いといいますか。
徳川御三家にあたる尾張大納言が大きなものを用意するのは宜なるかなですけれど、お隣にさらに大きな仙台中将、伊達政宗の時代のものとも思いませんが、伊達家の見栄が窺えもするような。ちなみに大きさはともかく、右側に見えるひと際太い文字は「彦根少将」とありますから、井伊家のものでありましょう。
ともあれ、そんなお歴々が時に休息し、時に宿泊した本陣ですが、今でいう宿泊プランのような、さまざまな利用形態があったようで。つまり、素泊まり、一泊、連泊と。この場合、もっとも費用が掛かるのは素泊まりであるようす。なんとなれば、食事の提供を受けないということは即ち、お抱え料理人を連れ歩いていたことになるのであると。要するに、どこで誰から毒を盛られるやもしれん…てなふうに考えたりもしたようでありますよ。
で、お殿様は庭園に臨む奥まった座敷に通されたのでもありましょうか。何せ岩波家の庭園は「日本の庭園100選」に選ばれているとか(と言って、庭の写真がありませんが…)。季節によっては窓を全開に開け放って、心行くまで庭を眺めて旅の疲れを癒したりしたのかも。折しも真冬にあってはしっかり閉まっていても、広い座敷は底冷えがひどく…。と、広間にいて足先をもじもじさせておりますと、一服のお茶が運ばれてきたのでありますよ。
茶碗から湯気が立っているのがお分かりになりましょうか。座敷はそれくらい寒かったわけで、岩波家のご当主、よくまあ長らくここに住まわれていたものだと感心しきり。実は、こちらの入館料800円と「意外にするね…」と思っていたものの、抹茶とお茶菓子(金平糖というのが江戸時代っぽい?)付きであったのでしたか、失礼しました(笑)。
ちなみに当主の間には「和宮様御使用の器」なるものが展示されておりましたなあ。十四代将軍家茂に輿入れする際、皇女和宮一行は中山道を通って江戸へ下向するわけですが、下諏訪宿にも立ち寄ったと。でもって、「本陣出立の際、婚儀のため出戻りがないようこちらの裏門から立たれた」と伝わるだけに、文字通りうらぶれた裏門にも大きな案内板が出ておりましたですよ(下の写真の右側)。
とまあ、長い歴史を持つ本陣でしばし幕末動乱に思いを馳せたりしたところですけれど、それにしても寒かった…。訪ねるならば、新緑や紅葉の庭を愛でるというタイミングが最上でありましょうね。