さてと、信濃国一之宮・諏訪大社へとやってまいりました。ご存知のように、諏訪大社は諏訪湖周辺に四社が点在している形ですな。上社前宮は茅野市に、上社本宮は諏訪市に、そして下社春宮と秋宮が下諏訪町にあるということでして、四社というより、上社と下社は結構離れている印象ですけれど、かつて諏訪湖は今よりもかなり大きかったようで、その当時にはいずれのお社も全て諏訪湖間近というロケーションであったそうな。陸路で見て遠い印象とは別に、湖を挟んでそれぞれのやりとりがあったのでもありましょうかね。
で、申し遅れましたが、上の写真は下諏訪町にあります下社秋宮です。JRの駅からもっとも容易にアクセスできる点で、四社の中では最もにぎわうお社なのではと思うところですけれど、大きな注連縄(同社HPには「長さが約13m、重さは推定500kg」と)の施された神楽殿には次々と参拝する方々が…といって、よく考えてみますと、神楽殿は目立つ(映える?)見た目ながら拝殿ではないのでしたなあ。こちらで参拝する(だけ)なのはちと諏訪大神に遠巻きに見ているような感じなのかも。
ということで神楽殿の真後ろに回り込みますと、大注連縄のキャッチ―さはありませんですが、何とも勇壮な拝殿が現れ出ることに。さすがに多くの武将の信仰を集めたことを偲ぶことができる姿でもあろうかと。ま、以前訪れたときには神楽殿を拝してそそくさと立ち去った口ですけれど…。
ところで、話としては先に立ち寄った高島城の城内展示解説を振り返る形になりますけれど、まずはその起源のあたり。例によって「諸説あり」とされる中で、このような紹介がありましたなあ。
持統天皇5年(691)に、天皇が勅使を派遣して龍田の風神と信濃国の須波(すわ)神と水内(みのち)神等を祀ったとする「日本書紀」の記事が、諏訪社が日本の歴史上に登場する最初であり…
淵源が持統天皇の時代となりますと、その前の(持統と仲良し夫婦だった?)天武の頃、伊勢神宮に奉仕する斎王の制度が作られて、つまりは稲作の神様をより強く意識したわけですな。諏訪のあたりは長く縄文文化が栄えてその名残を宿す土地柄ですけれど、そこへ弥生由来の神との調和というのか、統合というのか、そうした思惑を感じてしまったりもするところです。
諏訪の神を祀る神官が「諏訪氏」を名乗り武士化していったのは、平安時代後期と考えられます。また、上社と下社の支配関係が完全に分離するのは鎌倉時代に入ってからと言われ、それ以降、上社大祝(おおほうり)が「諏訪氏」、下社大祝が「金刺氏」とされ、共に諏訪社の祭祀と政治権力を握る祭政一致の支配者として君臨しました。
「大祝」とは「諏訪明神の依り代(=現人神)として頂点に位置する役職」だそうですが、上社の方が諏訪氏で、下社の方は金刺(かなさし)氏だったのですな。そういえば、下社秋宮の境内を少し外れた駐車場スペースの方に立派な騎馬武者像がありまして、金刺盛澄という武将ということで。
木曽義仲の挙兵に応じて出陣するも、のちに源頼朝の前で類まれな流鏑馬の技を示して赦免されたという人物。だからこそ、この姿で像が建てられてあるのですなあ。弓の名手である一方で、台座に「諏訪大明神大祝」と彫られているように諏訪明神の依り代であったとなりますと、この点だけでもあやかりたいと諏訪大社が武家に有難がられる一因にもなったのかもしれませんですね。ま、個人的には諏訪大社に参拝して願ったのは、例によって「世界平和」なのですけれど。