会社勤めの人がインフルエンザに罹った場合、職場復帰の目安は発症から5日後、解熱から2日後と言われているようで。退職以前であれば「仕事が溜まって気が気でない…」なんつうふうに気が急いたところでもありますが、今となってはいつまで寝ていても誰もなんとも言わないという状況ですが、さすがに寝ているのにも飽いてきた(ということは回復してきた?)ので、まあ、頃合いや良しでもあろうかと。未だ万全に復してはおりませんが、この後はまた何ごとも無かったように記してまいろうかと思っておる次第でございます。

 

さて、信州・上諏訪温泉で一泊し、諏訪大社に詣でる…とは申したですが、考えてみれば上諏訪の町(諏訪大社下社のある下諏訪町とは別の諏訪市にある町)はこれまで諏訪湖畔を素通りするばかりで立ち寄ったことが無かったなと。そこで取るものも取り敢えず、上諏訪で訪ねたのが高島城なのでありました。

 

 

水面に波立つことがないのか、お濠はすっかり凍り付いておりましたが、なかなかに見栄えのする立ち姿ではなかろうかと。比較的近くの国法・松本城と比べてはかわいそうですが、小ぶりながらこちらはこちらで毅然とした佇まいであるようで。板張り丸出しのように見える外観も、それはそれで味があるといいますか。

 

 

ともあれ、明治になって破却される前の写真(諏訪高島城HP参照)と見比べれば、1970年の再建にあたってはこの古写真に倣って作られたと思しき天守の内部は資料館になっていますので、入ってみましたですが、さすがに昭和の再建による内部はただの建物感が強いですなあ。最上階は展望台になっておりまして、さすがに冬の澄んだ空気の中、北アルプスまで見晴らすことができたものの、手前の赤十字病院の建物がでかすぎ!でもあるような。かなり被ってしまって…。

 

 

ところで諏訪の高島城といえば、むかしむかぁしから諏訪大社と関わり深い諏訪氏の居城と思うところが、現在地にある高島城は諏訪氏が建てたのではないのであると。甲斐武田を滅ぼした信長が本能寺の変で倒されると、諏訪氏は徳川家康に従うところとなって、武蔵、次いで上野に移っていたそうな。その間に秀吉配下の日根野高吉が諏訪に入り、現在に繋がる高島城の礎を築いたということで。完成したのは慶長三年(1598年)だそうです。

 

つまり、ドラマなどで諏訪氏が一番クローズアップされる武田信玄と諏訪御料人のエピソードの頃、諏訪氏は(現在の)高島城にいたのではなかったのですなあ。ただ、関ケ原の戦いを経て、諏訪氏は旧領に復帰。これは家康との関係が良好だったことの証でもありましょうか。ともあれ、日根野氏築城の高島城に拠って、諏訪氏は明治維新に至るまで居城としたということでありますよ。

 

ちなみにその諏訪御料人に関しては、展示解説にこんなふうにありましたなあ。

諏訪御料人は、信玄によって滅ぼされた諏訪頼重と側室小見氏との間の娘であり(「神氏系図」)、父の仇に愛され、時代に翻弄された女性として小説の題材によう取り上げられます。天文11年(1542)に武田家に嫁した祢津氏女(「高白斎記」)が諏訪御料人だとする説を容れたとしても、諏訪御料人について記した当時の確実な史料はほとんどないに等しく、生年も名前も消息も明らかではないため、井上靖『風林火山』(昭和33年)では「由布姫」、新田次郎『武田信玄』(昭和44年)では「湖衣姫」と名付けられ、作家の創造力によりドラマティックに描かれています。

ということで、新田次郎作品を原作にした大河ドラマ『武田信玄』では湖衣姫として出てきておりましたですね。今見ると「この人、だれ?」かもですが、若き日の南野陽子でして、大河ドラマで見た時には「大河ドラマもこういうキャスティングするんだ…」と思ったものです。

 

 

もっとも、前年の『独眼竜政宗』でも政宗正室に桜田淳子が当てられていたりもしたですが。まあ、今となってはこういう(どういう?)キャスティングばかりになってますけれどね…。

 

 

ともあれ、そんな諏訪御料人とは関わりの無い(現在地の)高島城は(展望台から望むとおりに)右には南アルプスに連なる山並み、左は八ヶ岳が迫る隘路を抜ければ甲斐府中(甲府)までは一直線で、いかにも攻めやすそう…とも。ですが、今ではすっかり湖から離れたように見える立地の本来は、「諏訪湖の波打ちぎわにきずいた難攻不落の水城で別名を浮城とも言われ」たとか。高く積まれた石垣を見上げつつ、そんな歴史のほどに思いを馳せた高島城なのでありました。