久しぶりに積もる雪が降りましたなあ。朝から雪かきをして、運動不足をこじらせている者としてはいささかヘタレ気味ですけれど、それはともかくとして…。

 

昨2023年の大河ドラマ『どうする家康』なんかも同様ですけれど、歴史上の人物をドラマ・映画や小説に描いて、何度も何度も取り上げられる場合がありますですねえ。その度に何かしらの特徴を出す必要があるわけで(でなければ作り出す意味が問われましょう)、工夫を凝らすあまり「えええ?」というものになったりすることもあり。ですがその一方で、歴史イベントとしてはたくさん描き出されてきたものであっても、主人公に「この人を?!」という人を持ってくる形もありますですね。視点を変えて見せるというわけで。近いところの大河ドラマで言えば、例えば明智光秀目線で語られる『麒麟がくる』みたいな。

 

そんな中、鎌倉幕府の滅亡から南北朝の動乱に至るあたりには『太平記』があって、これも何度も小説やら映像やらになっているものと思いますが、歴史の流れを同じくする物語に、「え?この人を?」という人物を主人公に据えた一冊に出くわしたのですなあ。『風と雅の帝』、北朝の系譜は皇統上、勘定に入らない扱いになってますが、その北朝初代となった光厳天皇の視線で語られる太平記の世界なのでありますよ。

 

 

本書カバーの帯にもありますように「”地獄を二度見た”」と言われる不遇の人で、『太平記』の物語の中でもおよそ目立たない存在でもあろうかと。ま、吉川英治の『私本太平記』を読んだくらいで、そもそもこの時代のことをよくは知らないのですけれどね。後醍醐帝、足利尊氏新田義貞、楠木正成などなど目立つ登場人物がたくさんいますので、その生涯と併せ、日陰に置かれてしまうのも詮無いところかと。

 

ただ、そこで独自性ということになるのでしょうか、不遇を託つ量仁(かずひと・後伏見天皇第三皇子、後の光厳天皇)が、精神的にぽっきり行ってしまわないために打ち込むのが「筋トレ」であったとは何と申しましょうか…。

 

時の六波羅探題となっていた北条仲時に乞うて「乾坤」(今で言う腕立て伏せですな)、「山嵐」(腹筋運動)、「衝天」(スクワットでしょう)などの筋トレメニューの数々を伝授された量仁はこれに邁進することで、挫けて腑抜けになりそうな心持ちを鼓舞するという。さらには量仁の影響を受けて、弟の豊仁(後の光明天皇)や息子の興仁(後の崇光天皇)も筋トレを始めるのですなあ。南朝側に攻め入られた折、屋敷内の一室で肌ぬぎ状態で筋トレに励んでいた豊仁を見かけた敵側の武士が「仁王が現れた!」と右往左往するさまが描かれるに及んで、もはや笑いを禁じ得ず…(あ、これもネタばれ?)。

 

と、筋トレ一点にばかり食い付いては話を見誤ることになりましょうから、ほどほどにしておかないといけんのですが、叔父である花園天皇が残した『誡太子書』を肝に銘じて、時の天皇らしくあらんとした量仁にはも少し光があたってもよさそうな。なんとなれば、象徴天皇となってなお、日本国民の安寧を祈念する役割?を与えられている現在の天皇のありように繋がるものがあるような気もしたもので。その『誡太子書』が今も天皇家に伝わっているとなればなおのことで。

 

歴史語りの点では何かと動きというか、動乱というか、そうしたものがあった方が面白いですから、とかく天皇としては後醍醐帝にばかりフォーカスされますけれど、後醍醐が目指したのはおよそ『誡太子書』に記された天皇のありようとは全く異なる親政だったわけで、「本来に復すのに何故こうも諍いばかり…」と後醍醐は後醍醐で思っていたかも。

 

ここで藪から棒ながら思い出すのは、12月のEテレ『100分de名著』で取り上げられていた中江兆民の『三酔人経綸問答』ですかね。なんだか何の献策でもないようなことを言っているようでいて、うまく世を治めるには「ほどほど感」が必要であることを語る南海先生の姿が思い浮かぶところです。何ごとにつけ、急激な変化、ドラスティックな変化には揺り戻しがつきものですものね。後醍醐帝はそのあたりの匙加減が分からなかったのでありましょう。自分が正しいとばかり思い込みが強すぎて。

 

一方で、光厳の方はともすると現状ありきの事なかれにも見えてしまうところながら、(良し悪しはあるも)現実的であったのでしょう。後醍醐の暗躍が鳴りを潜めたいっとき、京の都はそれなりに平穏でもあったのでしょうし。

 

ま、どっちがいい悪いとはひと言で言えたものではないところながら、その後の歴史において皇統を持ち上げる術に用いられて、何かと後醍醐側で語られ続けてきてしまった。そこへ、違う視点を持ち込んだというのは、あっていい話であるなと思ったものなのでありますよ。