塩船観音寺 でつつじを愛でた後に訪ねましたのは、
吉野梅郷にもほど近い吉川英治記念館でありました。
とっつきやすいものの長い長い吉川英治
の作品に親しんだとも思われぬ両親ながら、
映画化されたものを見て馴染みがある話もあろうかと思い、
また古い日本家屋にはそれなりの興味を示すものと思ったものですから。
すでに「宮本武蔵」や「三国志」を世に送り出して有名作家となっていた吉川英治が
西多摩郡吉野村(現在は青梅市)に転居したのは1944年3月だそうで、
もはや疎開の意味合いではなかろうかと。
ですが、生涯に30回の転居を繰り返したという吉川にとって
9年余りといちばん長く住んだのがこの吉野村の住まいであったとなれば、
居心地は上々だったのでありましょう。
作品の主体が歴史小説という分野であってみれば、
自然に囲まれ、四季折々の風情が感じられる屋敷住まいは
情景描写を捻るにも打ってつけだったような気がします。
やがて都心部に戻っていくわけですが、
これは仕事が忙しくなって出版社などとのやりとりにも遠隔地では
支障を来たすようなことでもあったようで。
本当は離れがたいところだったのかもしれませんですね。
と、これが住まいの主たる部分、母屋になります。
元々は養蚕農家の建物であったもので、記念館になって銅葺き屋根に替わるまで
杉皮葺きであったそうな。そうであれば、またぐっと古風な感じであったでしょうなあ。
その母屋を廻り込んでみますと、やおら洋風を加味した建物がくっ付いておりました。
ベランダ状の部分の床面にはアズレージョを模したようなタイルが敷き詰められていて、
純和風の母屋と好対照を成していますけれど、ここを書斎にしていたようで。
この書斎もまたお気に入りであったようで、執筆が佳境にあるときには
3度の食事も運ばせて書斎で取りながら、書き続けたなんつうこともあったそうです。
何しろ開放部から庭を眺めやればひとときの息抜きにもなったでしょうし。
大作「新平家物語」はここで誕生したのだそうですよ。
斜面になった遊歩道を登りにかかりますと、こんなに大きな椎の木にも出くわします。
樹齢は400~500年とのこと、これを見上げては歴史に思いを馳せるてなことも
あったのではないでしょうかね。
巨木の後ろ側には、庭や母屋の雰囲気を損ねないように控えめな感じで
後付けの展示館が建てられておりました。
ここで吉川英治の生涯や作品原稿、それに映画化・ドラマ化された際の関連資料等を
いろいろと見ることができるわけです。
それにしても、家業が傾いて小学校も卒業できないうちに奉公に出されたという苦労人で、
仕事の合間には川柳を捻っていたということなども人柄を偲ばせるものがあるといいますか。
そうした間にも、もの書き志向の気持ちは抑え難く、数々の懸賞小説に応募しては
当選を重ねるようになっていったそうな。
それが編集者の目にとまるところとなり、国民的雑誌とも言われた「キング」への連載、
そして大阪毎日新聞への「鳴門秘帖」の連載などによって
一躍脚光を浴びるようになっていくという。
吉川作品はこれまでに何度か手にとったことがありますけれど、
どこまでも平易な語り口でありながら、歴史が持つ功罪、おもて裏を
ついつい考えてしまうあたり、歴史に学ぶことを小説を通して広く伝えるものであったような。
国民的作家は単なる売れっ子作家ではなかったのですよね。
そんなところからすると、この記念館が「草思堂」とも言われますのは
草=自然として自然の中で思考を巡らす場所というだけでなく、
草=民草というようにも思えなくもありませんね。
実際に吉川は吉野村ですっかり村民の間に融け込んでいたようでありますし。
GWながら塩船観音寺の喧騒とは打って変わって穏やかな時間の流れていた草思堂、
とても良い所だと思ったですが、1年のうちの半年はクローズしている点にはご注意くださいまし。


