もはや惰性で見続けている感がありますなあ…というのはNHK大河ドラマの『どうする家康』のこと。そも「今、最も期待される脚本家のひとり古沢良太が、新たな視点で、誰もが知る歴史上の有名人徳川家康の生涯を描く」(番組公式HP)を謳い文句として始まったわけですが、見ていて「自由だなあ…」と思うところでして。

 

歴史上の人物ともなれば数々のエピソードが広く知れ渡っておりましょうから、それを踏まえて描く分には安定感あるといいますか、およそ突っ込みようがないことになりましょう。されど「新たな視点で」となりますと、「そうだったの?」というようなことが出てくることを期待させもしますですね。ですが、そのあたり、「かつてこう考えられきたことが覆りました」的な歴史研究の成果にでもよるのであればともかく、分からないところを想像で補う小説的手法があまりに過ぎると眉唾ものにもなってしまうわけで。

 

創作に、歴史の空白を想像で埋めることは多々あるところながら、許容範囲がどこまでかはとても難しいところですよね。極端に過ぎた例としては、現代と戦国時代とをタイムスリップしてしまうような類いの話が挙げられますが、『どうする家康』はそこまでぶっとんでいないとしても、むしろ戦国SFと同じくらいに妄想した物語なのですよと、宣言してもらった方が見る側は気が楽なんじゃないですかね…。

 

と、ここでは『どうする家康』にとやかく言うのを書きたいわけではありませんで、そんな思い巡らしが『ハムネット』という小説を読んでいて巻き起こってきたのが原因。ここからは『ハムネット』のお話でありますよ。

 

 

話の舞台は英国、ストラトフォード・アポン・エイヴォン。訪ねたのはもはや30年余り前になりますけれど、エイヴォン川の水辺も近く、とても気持ちのいい町だったなあと思い出します。ご存知のようにウィリアム・シェイクスピアの生誕地ということで、ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー(RSC)が本拠とする劇場があり、そこで『十二夜』を見た事も(白水社版の訳書を片手に、笑)。

 

ということで、シェイクスピアと関わり深い町のお話のタイトルが『ハムネット』となれば、およそ思い浮かぶのは『ハムレット』ではなかろうかと。シェイクスピアには幼くして亡くなったハムネットという名の男の子がいたとされ、本書ではハムネットの夭逝が実は『ハムレット』を生み出す原動力になったのでは…という想像をベースにしているのですね。

 

訳者あとがきに曰く「当時、名前の綴りは一定していなかった」とありましたですが、物語の中では(名前として)ハムネット=ハムレットと、違和感なく受け止められているようすが描かれています。で、物語の進行役は多重的ながらもメインはシェイクスピアの奥さんでありましょう。一般に、アン・ハサウェイとして知られるわけですが、やはり名前の綴りが一定でなかったことの証左であるのか、アンの父親の遺書に見いだせる名前はアグネスなのだとか。Agnesをアニェスと読み、そこからアンとも呼ばれるであろうことは類推の範囲なのかもしれません。本書では一貫してアグネスが採用されています。

 

で、アグネスなのか、アンなのかはともかくも、シェイクスピアの妻といえば悪妻の代表でもあるかのように言われてきておりますね。妻が8歳年上とあって、若いウィリアムがあたかも絡め捕られてしまったかのように、もっぱら超有名人となった夫を擁護する?ような観点から語られたりするところながら、実際には妻のことはよく分かっていないようで。本書の作者はむしろウィリアムがアグネス(アン)を選んだ理由があるものと想像して、その人物像を紡ぎ出していくのですな。

 

それこそ、上の方で触れた「分からないところを想像で補う小説的手法」ということになりますけれど、家業(皮手袋の製造販売)には全く関心を示さない、つまりは当時として家業を継ぐことを当たり前のこととは到底考えていない青年ウィリアムが、周りを見渡す限り、他にはない個性を持ったアグネスに惹かれるという設定には「なるほど感」があったりするのでありますよ(実際にそうだったのだ…とは思いませんが)。

 

かなり年上で得体のしれない個性を持つ嫁は、シェイクスピア家には必ずしも歓迎されませんけれど、夫との仲は極めて良好。それが故に、積極的に家業に勤しむことのできない夫を見て、ロンドン行きの背中を押すのもアグネスだったりするという。さりながら、ロンドンで天職を見つけたウィリアムはいっかなストラトフォードに帰ってこない。そうこうするうちに息子のハムネットがペストに罹り亡くなってしまう(実際の死因は不明)。悲嘆にくれるアグネスは、夫の次回公演が『ハムネット』というタイトルであると伝え聞くや、ロンドンへ、グローブ座へと向かう決意を固めるアグネスなのでありました…。

 

最後の最後、グローブ座に溢れ返る平土間の観客にもまれながら、アグネスは『ハムレット』を芝居を見るのですなあ。いわゆる『ハムレット』本来の物語はともかくも、その中にハムネットを失って悲しむ夫の姿、直接的にアグネスには想像もできていなかった姿を見出す。子どもを失った夫婦の、どちらが悲しがっているか、それを互いが想像できているか…ではありませんけれど、話としての普遍性もここにはあるような気がしたものです。

 

ただただ、シェイクスピアとその妻、家族を描く物語ではないことを意識してか、このお話にではシェイクスピアという名前は一度も出てこないのですな。これも作者の思いなのでありましょう。物語の進行過程で時系列の揺らぎにとっつきにくさはありましたけれど、久しぶりに「小説」という表現芸術の妙味を感じた一冊なのでありました。