さて、このほど東京都公文書館を訪ねるのに背中を押された企画展「東京府文書にみる多摩と東京 ―多摩地域東京府移管130年―」を覗いてみることに。

 

 

常設展示室自体がさほど大きなスペースではありませんので、その奥にある企画展示室もまた同様に。ただ、地元だけに興味ある内容だからでもありましょうが、展示解説を「ふむふむ…」と見てみたものでありますよ。

 

 

展示の副題に「多摩地域東京府移管130年」とありますように、明治になって廃藩置県が行われ、県単位の地域割りがなされる中で、端から多摩は東京に組み入れられたのではないのですなあ。廃藩置県当初の明治4年(1871年)段階では、多摩郡は東京府と入間県(紆余曲折を経て現在は埼玉県の一部)との分割統治になっていましたようで。

 

 

ところがほどなくして多摩郡の移管先は神奈川県とするお達しが太政官から出されます。これには「多摩郡にある外国人遊歩地を取り締まるためという、神奈川県からの要請」があったようですなあ。開港場(この場合は横浜ですね)から40km圏内は外国人が自由に歩き廻れると決められていたことが関わりますですね。取り分け、多摩川を越えるのは不可となれば、関わりあるのは多摩郡ばかりでしょうから。

 

もともと八王子から横浜方面に掛けて「絹の道」が通り、多摩地域と神奈川県(横浜)とは人の往来や物資輸送の点で繋がりもあったことも背景にありましょうけれど、これには猛反発が生じたと。多摩地域はなかなかに広いエリアで、そのうちの江戸に最も近い東多摩の村々では「東京府への移管を求める歎願が出され」たといいます。曰く「神奈川県庁は遠すぎる!」と。

 

 

上に東多摩郡とあるのが東京府に揺り戻された範囲で、ほぼほぼ現在の中野区、杉並区に該当すると…いう衝撃の事実?に気付かされたのは昨2022年に訪ねた町田市立自由民権資料館の展示だったのですけれどね。今ではすっかり23区顔をしている中野や杉並も多摩だったとはそこに住まう人たちも知らんでしょうなあ。後に東多摩郡はお隣の南豊島郡と合わさって豊多摩郡となり、現在も杉並に豊多摩高校なんつう名前のが学校があるのが、せめてもの名残といえましょうか。

 

とまあ、広いエリアの多摩地域から東多摩が分離したことで、残った西多摩、北多摩、南多摩が要するに「三多摩」と呼ばれるようになるのですな。で、一端は神奈川県の多摩地域として落ち着いたかに見えるも、実は東京府からは再三要望が出されるのですなあ。西多摩、北多摩を移管してほしいと。

 

 

江戸の昔より町なかの水利を神田上水玉川上水などに頼っていましたが、これの水源と流路は西多摩郡、北多摩郡を通っているわけです。江戸城にまで引き込まれるとあって、かつては厳重に管理されてきた水路はおざなりに扱われるようになってくる。まあ、神奈川県の水がめは相模川水系にあるますしね。

 

上水路沿いの農民が水路で舟運をやりたいと願い出れば神奈川県は許可してしまし、管理が緩ければ生活排水が流れ込んだりも。飲み水にもなる水路が汚染されることに東京府としては黙っておられないのは当然だったでしょうけれど、これをなかなか政府は許可しなかったのですなあ。さりながら、上の図(明治40年段階)で三多摩はすっかり東京府の中に入っている。何があったのか?ですが、明治25年(1892年)に神奈川県から「南多摩も一緒にもっていってくれるなら」という条件が出され、結果として東京府・神奈川県双方合意の上申書が出されたということでありまして。

 

当時は自由民権運動が広く展開されたわけですけれど、多摩地域、取り分け南多摩のあたりは拠点や活動家が多かったようですね。先に触れた自由民権資料館が町田市(南多摩地域ですな)にあるのが象徴的であるように。神奈川県はこれに手を焼いてやっかい払いがしたかったようでもありますねえ。

 

 

この上申を受けた明治政府では意見が分かれたようながら、当の多摩地域でも賛成・反対に分かれて大騒ぎになったとか。いわゆる自由民権派に与する役場の長たちが抗議の辞任に及んだのが上の図に色塗りで表されています。見事なくらいに南多摩・西多摩VS.北多摩となっていようかと。北多摩郡は(とうに東京かした東多摩に次いで)比較的中心部に近く、また明治22年(1889年)に甲武鉄道(後の中央線)が開通し新宿と結ばれたことで、東京との一体感が増していたようですな。

 

民権派の人たちの中には「壮士」と呼ばれるような過激なふるまいに及ぶ輩もいて騒ぎが大きくなりますと、政府内で移管に慎重な意見であった人たちがこぞって移管賛成に回り、翌明治26年、三多摩は果たして東京府に移管されることになったのであると。以来、130年が経過したということでありあすなあ。

 

されど、この間、例えば東京府が東京都に衣替えする際にも多摩をどうするかという議論は生じたようで、決して安定的な立場ではなかったようでありますね。考えてみれば、今でも米軍基地がおかれたりして、いわば東京の沖縄(とは言いすぎですが)的なところもあろうかと。そんなことなら、多摩県でもなんでもいいので独立してしまえばいいのに…とも思ったりしたものでありますよ。