さして遠くもないのに、そして予て一度はと思っていながら訪ねていなかった博物館へ、
お日柄(お天気)も良し、いよいよ出かけてみたのでありました。こちらです。
羽村市郷土博物館。ですが、羽村市(はむら・し)って?でもあろうかと。
立川と奥多摩とを結ぶJR青梅線が山間部に入るちょいと手前にある羽村市は
東京都では最も人口の少ない市であって、それも(狛江、国立に次いで)三番目に小さい面積であるとか。
それにも関わらず自前の動物園を持っている、なかなかの存在なのでありますよ。
とまあ、ひとしきり羽村市を紹介してみましたが、奇しくも昨晩、
玉川上水にもフォーカスしたNHK「ブラタモリ」では羽村にも立ち寄っていたはずですので、
その名は全国区になっているかも(個人的に録画してまだ見てませんが…)・。
ともあれ、訪ねた羽村市郷土博物館も思いのほか立派な印象で、
施設としても展示の方も新しく、見やすいものでありましたなあ。でもってここの目玉ですけれど、
江戸時代にここが無ければ江戸市中は人口増加で破綻したのではないかという羽村取水堰に関する展示解説。
江戸の水事情を改善するために開削された「玉川上水」の取水口に当たる堰が羽村にはあるわけで。
展示をじっくり眺めて、取水堰そのものの理解を深めようとまあ、そういう算段だったのでありまして。
まずもって展示解説に曰く「なぜ羽村から上水をひいたのか?」と。そう言われてみれば、
全長138Kmという長い多摩川のどこに水源を求めるか、候補はいろいろありそうです。
ですが、江戸まで水を引き込むには高低差が必要で、先にもふれたとおりに羽村は
山間部に至る少し手前というのがポイントでもありましょう。そして、さらに…。
このパネルにありますように、急な流れが丸山にぶつかって少々緩やかになった上に、
川筋が東に向かうことで江戸方面への取水がやりやすかったということになろうかと。
ジオラマでみると、こんなふうです。
ご覧のように、川の水はすべて逃さないてな意気込みで堰を設け、
右手に見える流路(要するに玉川上水ですな)に流し込んでおりますよ。
ちと遠景にはなりますが、実際のようすも江戸時代とさして変わらぬ姿が窺えます。
もそっと堰の近くに寄ってみますと、流れを遮っている部分は丸太を組んだもののようにも見え、
コンクリートや鉄が使われて当然とも思えるところながら、何とも古風な印象です。
展示解説によりますれば、投渡堰(なげわたしせき)と言って、
構造としては江戸時代の仕組みそのままに使っているのであるとか。
丸太を軸に、隙間には草木や砂利などを敷き詰めることで、水を堰き止めているけれど、
あまりにがっちり堰き止めすぎない(つまり流れの力を逃すというか)ようにもできているということでしょうか。
それでも万一の大増水などの際には、コンクリ―ト造りなどではないので一旦壊して流れをよくする一方、
水が引けば改めて作り直すのにも手間が掛からないことは大きな利点なのでありましょう。
とまあ、このような堰で止められた水の流れは東側に導かれます。
玉川上水への流量を多すぎないよう、かといって少なすぎもしないようにする調整池のようなところでしょう。
写真でいいますと右手、堰の上流側から取水された水の余った分がその左手、
ここは堰を挟んだ下流側にになりますが、こちらの水門から多摩川へと戻されることになるのですな。
ところで、この放流口にあたる水門は、こちらはこちらでレトロな面持ちですけれど、
明治33年(1900年)にそれまでの木製水門から造り替えられた当時のままであるとか。
すでに120年余にわたり現役とは大したしたものですなあ。博物館の再現展示を見ても、
かなりがっちりできいることが分かります。
ちなみに、この頑丈そうな水門が造られる前、江戸時代の水門は木製だったということですが、
博物館内にはこちらも再現されておりましたよ。
いちばん左側に見られるように、均一な規格の板を落とし込んで仕切りにし、
板の枚数でもって水量の調節を行っていたということで。
とまあ、そんな仕組みで多摩川から取水された玉川上水は、
わずかな勾配をうまく利用して江戸市中まで流れていくことになるのですなあ。
取水堰の近くでは、開削を手掛けた玉川兄弟が自らの仕事ぶりに満足しているようすで、
あたりを見つめているのでありました。