長崎であちこち訪ね歩いたところはひと通り触れて来たように思いますが、そこから抜け落ちた道すがらの何くれを落穂拾いということで。まずは、大浦天主堂に向かう際、道端で目に止まったこちらから。

 

 

「ボウリング日本発祥地」とは、古くから外来文化の流入した長崎らしいところでもありましょうか。何々発祥の地云々という碑は東京の築地界隈横浜でもたくさん見かけましたですが、やはり長崎にも当然のようにあれこれあるのですなあ。わりと近く、ANAクラウンプラザホテル長崎グラバーヒルの敷地際には石碑が三つ、揃い踏み状態で。

 

 

あたりはかつて南山手居留地として外国人が多く住まったわけで、いわゆるグラバー邸が近くにあるのも当然ですな。で、これに並んで「長崎電信創業の地」碑、「国際電信発祥の地」碑がありますですね。このへんの事情は以前に訪ねたKDDIミュージアムで知る所となっておりましたが、解説板の説明はこのように。

明治4年(1871)デンマーク系の大北電信会社によって、長崎~上海間、長崎~ウラジオストック間に海底電信線が開通(通信所は南山手にあったベルビューホテルの一角)し、日本と世界が初めて即時に情報交換できるようになりました。

そういえば、発祥の地ということでは出島の近くで見かけた幟旗にも「ほお~、そんなものまで…」といった印象を得ましたなあ。

 

 

曰く「日本のパフェ発祥の店」であると。窓の方にある掲示にもそっと詳しいことが書かれてあるのかと思えば、「ジェラートの果汁はハー〇ンダッツより断然多いですよ」とか「バニラエキスのソフトクリームは砂糖を大幅カットしています」とか、要するに宣伝でしたので、詳細は不明ですが…。

 

 

こちらは長崎歴史文化博物館の展示解説パネルですけれど、長崎の唐人屋敷(交易に携わる中国人のいわば居留地)に住まう中国渡来の人たちの招きによってやってきた隠元国師らがもたらした「黄檗宗の文化」を紹介しているのですね。

 

長崎というとどうしてもキリシタンを思い浮かべるところながら、どうしてどうして長崎に残るのは「和華蘭文化」と呼ばれるくらい(これまた夜景観光のバスガイドさん仕込み)で、和(日本)と華(中国)と蘭(オランダ)の文化が混然として入り混じっている、はたまたモザイクを描き出しているわけですね。その中華由来の文化が黄檗宗によっても伝えられたようで。解説にはこのように。

隠元たちによって黄檗文化が中国から長崎へ伝えられました。福建地方の影響が強い写実的な仏画は、逸然や河村若芝によって長崎から全国へ広がります。黄檗僧の伸びやかで自由な書風は「唐様」として珍重されました。沸かしたお湯に茶葉を加えて煮だす煎茶や、色鮮やかな料理を皆で取り分けて食べる普茶料理など、黄檗文化は暮らしの中にも広がりました。

普茶料理は長崎名物の卓袱とも関わるわけですが、基本的に日本では銘々膳の文化だったでしょうから、いわばパーティー形式とも言えるこの形、新鮮だったのでしょうなあ。

 

あいにくと今回は唐人屋敷跡までは出向くに至っておりませんですが、ちょうど中華街の南門を抜けたあたりはかつて唐人屋敷を取り巻いていた川(堀?)が長崎港へとつながる河口であったそうで、今はそこが「湊公園」(それらしい名前ですな)として整備されているということで。名残を留めんとするか、中華風の大きな門が建てられておりましたよ。

 

 

公園として整備…というには単なる広場に見えてしまいますが、「中国の旧正月にあわせて開催される冬の風物詩・長崎ランタンフェスティバルのメイン会場としても利用され」る…とは、そのためにだだっぴろいままにしてあるのかも、ですなあ。

 

と、いささか話が中華寄りになったところで最後のひとつ、これはこれで長崎らしい路面電車、長崎電気軌道の健在ぶりを。滞在中は何度か乗車してお世話になりました。

 

電車が渡りかけているのは「おらんだ橋」と。やっぱり長崎はオランダゆかりのものもたくさんありますですね。