江戸幕府の時代、長崎は天領として奉行所が置かれていたわけですが、奉行所には西役所と立山役所という二つの事業所?があったようで。西役所は出島に近く、もっぱら港の管理・監視を行っていたのですかね。一方、立山役所はもそっと内陸、山の端にあって本来の奉行所業務全般はこちらで行われていたと。その立山役所跡に設けられている長崎歴史文化博物館に、4年前訪ねた折に博物館の一部に再現された奉行所建物やらお白州やらを見て周ったのですけれど、「大シーボルト展」ついでに再訪した博物館の展示紹介には以前と異なるところもあるように見受けた次第でありますよ。

 

 

長崎歴史文化博物館の常設展示は「歴史文化展示ゾーン」と「長崎奉行所ゾーン」の二つに分かれていますけれど、こちらは後者の入り口あたり。奉行所の復元建物に入る前に、長崎奉行所と奉行の役割などについて解説したコーナーになります。で、ここからは展示解説はもとより、今回の旅の供としていた角川選書の一冊『長崎奉行の歴史』も振り返りながら、長崎奉行について思い巡らしておこうということで。

 

 

そも長崎奉行の役割といいますのは、(以前にも引いたことではありますが)大きく分けると次の五項目であるということですね。

  1. 長崎の行政全般(行政・司法)
  2. 西国一帯のキリシタン探索
  3. 異国船警備に関する西国大名の指揮
  4. 貿易統制に関する諸政策の監督と実施
  5. 抜荷(密貿易)取り締まり

で、「なかでも重要視されていたのがキリシタン取り締まり、貿易統制の監督と実施」という点を「いかにも長崎ならでは」として、前に訪問したときには書いていたわけですが、いかにも長崎と思い浮かべる切支丹対策は長い江戸期の間中、常に苛烈を極めていた…というわけでもなさそうな。確かに秀吉以来、江戸幕府の初期には相当に厳しく取り締まっており、そんなところへ島原天草一揆が起こってしまったものですから大弾圧というふうにも。宗門改め専任とも思しき大目付の井上政重の名前が知れ渡るのはこの頃でありましょう。なこうした仕事の大変さが奉行の中でも重視されたということでしょうか。

 

その後、先に訪ねた大浦天主堂キリシタン博物館にも展示解説のある「浦上四番崩れ」といった大弾圧は起こるものの、それは幕末のお話。外国船がうろうろしだしたことから、この際一度、切支丹禁制の姿勢を明確にしておかねばとでも考えた故でしょうか。さりながら「四番崩れ」と言われるからにはそれ以前にも一番から三番の「崩れ」(切支丹弾圧)があったものの、そちらは余りクローズアップされることがない。幕藩体制が比較的安定していた時期には、切支丹対策でも「ことなかれ」的に穏便に済ます対応が、長崎奉行の下、とられてもいたようなのですなあ。

 

ということで、上に挙げた五項目が常に均等な形で奉行の役割を構成していたのではないようです。『長崎奉行の歴史』の分析によれば、奉行就任者が長崎奉行となる前と後の役職を見てみますと、まず目付職(切支丹やら外国船やらを厳しく取り締まる系でしょうか)との関わりが深かったところが、やがて勘定奉行(幕府の財政に関わるわけですね)との関係が顕著になってくるのだといいます。西洋との窓口を長崎に絞って厳格に管理はするものの、オランダとの交易による利潤が幕府財政には大いに重要と目されたのでもありましょう。

 

とはいえ、当初はそれまでの日本で見たことのないような新奇な代物が入ってくることに眩惑されていた(長崎奉行の本当の初期段階は「将軍の買物係」とも呼ばれていたとか)かもですが、蓋を開ければそれらの品々を購入するのに、日本で産出する金銀銅がそれこそ山のように流出していく事態を黙視してはおあられぬようにもなっていった。そこで、幕府として倹約政策を打ち出す際などに対外貿易の制限(来航できる唐船、オランダ船の数を減らす)なども考慮され、また実施もされたのだとか。

 

そのことは幕府への上納が減るばかりでなくして、貿易頼みで成り立っていた長崎の町の趨勢にも大きく影響することに。何しろ商人をはじめ、港の人足などを含めて貿易が飯の種になっている人たちがわんさかいる長崎ですから、交易が減れば町は荒む。長崎の地域行政が平穏に行われることも奉行の仕事のうちですので、幕府の政策との間で大いに苦労をさせられたのが長崎奉行でもあったようです。幕府寄り(つまりは何事につけ厳しく臨む)の奉行は嫌われ者となり、町の衆とうまくやろうとするといつの間にか賄賂などに絡め捕られ、処罰されてしまったりも。

 

復元された立山役所の広い座敷の片隅では、モニターが置かれてビデオ上映がされていましたですが、見ているとこれが「フェートン号事件」の顛末のようでした。文化五年(1808年)オランダ船と偽って強硬入港してきたイギリス船が水や食料を要求して居座ったという事件ですな。オランダ人が人質に捕らわれていることから穏便な対応(要求に応じて帰ってもらう)を願い出たオランダ商館長の言を容れた、時の長崎奉行・松平康秀はイギリス船の要求に応じて体よく追っ払ったわけですが、奉行自身としては相手の言い分を丸のみしてしまったことを恥じて自刃して果てたという顛末であったそうな。

 

この後もだんだんと増える外国船来航に、幕府としてはっきりと「異国船打払令」を出したのが文政八年(1825年)であったと。ですが、オランダ商館から入手する「おらんだ風説書」で得る情報だけでは、世界情勢を掴むに十分ではない状況にまだ気づいていなかったのでしょうか。

 

そもそも、フェートン号の来航自体、ナポレオン戦争下にあった欧州の複雑な情勢があってこそだったわけで。フランスの支配に屈したオランダとイギリスは(従来以上に?)敵対関係にある中、同じくフランス側に立った寄りのポルトガルの海外植民地、具体的にはマカオの占領を試みたイギリスが、よもや長崎にオランダ船やらポルトガル船がいて邪魔しに現れることなど無いようにと、偵察に出向いたということでもあるということですので。

 

度重なる外国船の来航に対して、これを武力で追い払えと命じた幕府ですけれど、世の中はすでにナポレオン戦争段階でも世界大戦のような様相を呈してもいたとは、幕末に向けて瓦解していく幕府の姿が想像できてしまうところでもありましょうかね。そんな中、最前線・長崎を任された長崎奉行の苦労は相当なものであったように思ったものでありますよ。