日本におけるキリシタン受難の歴史はさまざまに物語で描かれるところですけれど、江戸初期の弾圧下にあって最後の日本人司祭として殉教した小西マンショを軸にして、なかなかに壮大な物語となりましたなあ。川越宗一の『パシヨン』を読み終えたところです。
しかしまあ、最後の日本人司祭・小西マンショのことも知らなければ、その人物がキリシタン大名であった小西行長の孫であったとは。祖父がキリシタンで、母もキリシタン、当のマンショもキリシタンとして育つわけですが、ただただ隠れてばかりもいられないのは、行長の孫であったからでしょうなあ。
関ケ原で西軍に加担したが故に改易となった小西行長は肥後半国を治めて、宇土城下はキリシタンたちにとって暮らしやすい場所であったようす。それが一転、小西家の没落とともにキリスト教が禁じられてしまうことに。孫の彦七(本書でマンショを名乗る前の名前)を主君と押し立てて小西家を再興し、キリシタン安住の地を作ろうぞ!と、小西家残党やキリシタンたちが放っておいてはくれないわけです。
彦七にとって行長の孫という意識はあるものの、自らのありようを周りが決めてしまう窮屈に耐え兼ねて…といささかネガティブな動機ながら、周囲から逃れるためもあって有馬のセミナリオに籠り、また伴天連追放(高山右近が追放されたのと同じ頃)に乗じて、マカオ、ゴア、果てはポルトガル、ローマにも渡航して、司祭に叙階されるのですな。ときに、付かず離れずの同行者はかのペトロ岐部でありましたよ。
彦七改めマンショが長らく日本を離れている間も、キリシタンの弾圧は苛烈を極め、ついには島原の乱に至ることに。これの首謀者のひとりとされる天草四郎の父、益田甚兵衛を、物語では従兄の源介ともども元小西家の家中であったことにしてありますな。その源介がマンショの育ての親として関わりを深めている。原城落城に際して、マンショと天草四郎とのやりとりは(およそ想像の産物であるにせよ)ひとつ、深みのあるところとなっておりました。
また、物語の深みという点では、幕府の宗門改役としてキリシタン弾圧に携わった井上政重への目配りも並行的になされていて、捕縛され、穴吊りにされたマンショと政重が対峙する場面、これまた深みがあるところでして。転ぶよう迫る政重に対して、マンショが発したのは「赦す」という言葉であったわけで。
ことここに至る以前、キリシタン弾圧下の日本に戻ったマンショはあちこちで迫害を受ける姿を目にしますが、キリシタンたちに対しては「絵を出されたら踏んでいい」、「神は赦してくださる」と説くのでありますよ。どんな罪も悔い改めれば神は赦してくださる。それは、政重に対しても同様というのですなあ。遠藤周作が描いた『沈黙』の神が非常に厳しいもの(フェレイラという受け止め手の印象としてですが)であったのに比べ、マンショは限りなく慈愛の神であったとでも言いましょうかね。
まあ、キリスト者ではないものの考えではありますけれど、キリスト教は自死を禁じておきながら、黙っていれば死に至るという場面でも、信仰を捨てるくらいならば殉教せよと言っているようなもので、結果的には自ら死を選んでいる(選ばせている)ことになるような気もしますですね。根本的に何かが違っているのではなかろうかと思うところです。その点、マンショの説くことは宗教ありきでなしに、人ありきなのではないでしょうか。
…と、そんな思い巡らしをしたところで、明日(10/2)から長崎へ出かけてまいります。まあ、本書を読む前からあった予定なのですけれどね。初めてではない場所ながら、これまで立ち入らなかった外海のあたり、折しも生誕100年にあたる遠藤周作の文学館なども覗いてこようと思っておるところです。週末頃にまたお目にかかれるものと思っておりますが、またしてもしばし無沙汰をいたします。ではでは(今度は本当に出かけてきますですよ、笑)。