長崎滞在中にとある飲食店でお店の方から「長崎は何泊ですか」と問われて全部で4泊の日程であることを告げると、「ああ、ハウステンボスなどを周って…」といった反応が返ってきたのですな。一般に長崎観光で4泊5日にもなるとなれば、まずハウステンボスは押さえておくということなのでしょう。ですが「どっぷりと長崎市内に4泊です」と応じますと、長崎市民であろう相手方としては「ほお!」と、驚きとも喜びとも判じかねる表情になったりも。今回は取り分けゆったり歩き廻っていますので、4泊でも足りないくらいなのですけれどね。そこらへん、「フツー」の旅行者とは感覚が大いにことなるようで…。

 

と、そうしたことはともかくも、長崎歴史文化博物館を訪ねたというお話でありまして。ここの博物館は直近(といっても4年前)の長崎訪問(出張の合間でしたので訪ねたのはここだけですが)で立ち寄り、駆け足で見て周った記憶がありますが、折しも「大シーボルト展」なる企画展が開催されていましたので、もう一度という次第でありますよ。

 

 

「日本史」の教科書に必ず名前の出てくるシーボルトが来日して、今年2023年で200年とのこと。世にはさまざまな周年イベントが展開されますけれど、これもまたそうした便乗商法(言葉は悪いですが)ということなのでありましょうね。ともあれ、まずは企画展示室の方へ(といって、企画展会場は撮影不可ですが)。

 

ドイツ人のフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトがオランダ商館付きの医師として来日したのは、文政六年(1823年)であると。かつては、そもなぜにドイツ人がオランダ東インド会社に雇われて?と思ったりもしていたですが、シーボルトの来日以前にはやはりドイツ人のケンペル、そしてスウェーデン人のツンベルク(トゥーンベリなどとも)がオランダ商館付医師として出島で勤務していますので、シーボルトだけが珍しかったのではないわけですね。当時のオランダ東インド会社は巨大なグローバル企業でしたので、欧州の各国から人材が集まったとしても不思議はないか…と思ったものでありますよ。

 

ちなみに、ケンペル、ツンベルク、シーボルトをまとめて「出島の三学者」と呼んだりもするようですが、身分は商館付医師として、当然に医療に携わるわけですけれど(余談ながら、展示されていたに見られた当時の医療用器具類が患者目線で見れば、どれをとっても「痛そう」な代物ばかりでしたな)、それぞれに西洋医学を日本人に指南することも行っておったのですな。そうした中では、日本でも「本草学」が医学と関わりある分野であったように、彼らによってy西洋由来の博物学の視点が持ち込まれたわけなのですね。ツンベルクは植物分類の体系化で知られるリンネの弟子ですし、ケンペルもシーボルトも医師である以上に(その個人的指向として)博物学者だったのでもあろうかと。

 

こうした複合的な専門分野の持ち方は、彼らの大学での学び方(大学の教育方針ですかね)にもよろうかと。シーボルトも医学はもとより、博物学も地理学なども学んでいたようですけれど、展示にある数々のシーボルトの収集物は広い指向性が窺えるところなわけですね。で、地理への関心もありとなれば、思い出されるのは、日本地図を持ち出そうとして処罰されたシーボルト事件でもありましょう。長崎歴史文化博物館には「こんなものも残っているのか…」と思える「シーボルト国外追放達書」という資料が所蔵され、今回展で展示されておりましたよ。

 

まあ、牧野富太郎は植物学者ですけれど、関心のあるものについては悉く集め尽くしたいと考えてしまうところがあろましょう。博物学者というのもまた同類であって、(シーボルト自身が描いてはいないにせよ)日本のありとあらゆるものを記録しておきたいという思いは強かったことでしょうね。そんなところで、「よもやこれほど精細な?!」という日本地図があるとなれば、手に入れたくなってしまう性であったろうかと。地図を用立てた側の幕府天文方・高橋景保の方も、シーボルトが提供するという西洋の書物類は喉から手が出るほどに欲しい資料だったのでしょう。どちらにしても、他のことはさておいてになってしまって、それほどに学問への意識が高いともいえますが、ありがちな視野狭窄ともいえそうな気がするところです。

 

ところで今さらですが、シーボルトが日本にやってきた文政六年当時は弱冠27歳くらいの若さだったのであるとは改めて。ともすれば「こんな若造に学問を教わるのか」と思った日本人もいたかもですが、それを抑えてしまうほどにもたらされた知識は新奇なものであったのかと。

 

シーボルトが若かったという点では、フライヤーに使われている肖像画を見ても分かりますですね。これ、川原慶賀という日本人絵師が描いたものということです。さまざまな画題に取り組んだ川原作品には動植物画なども多くあって、後にシーボルトの著作の挿絵に採用されたということです。

 

微細に、事細かに描くその技量が評価されていたのでしょうけれど、写実性の高さはシーボルトの肖像画にも窺えるところであろうかと。なにしろ、幕末描かれた数々の異人図を見るに、その容貌はもはや妖怪!のようですしね。異常なほどの鼻の高さ(長さ?)は当時の日本人には驚きの的だったかもしれませんが、川原描くシーボルトはまあ、ほどほどですし。

 

てなふうに「大シーボルト展」@長崎歴史文化博物館を覗いてきたですが、展示の数々はもそっと広く深いものでありましたよ。そこまで反芻しきれていないのはやや遺憾ながら、「そうか、そうか」と思いながら見て周った展覧会なのでありました。