長崎奉行所立山役所 の復元建物と一体となった長崎歴史文化博物館。

その展示は、長崎と海外との関わりとそれを通じての長崎の発展というものでありました。


「そりゃあそうだよね。長崎は鎖国時代に海外との唯一の窓口だったのだし、出島もあって」と

ついつい考えてしまうところながら、どうやらそれは例によって日本史知らずの故であったことが

解説でもって今さらながらに気付かされるのでありましたよ。


なんとなれば、鎖国していた江戸期の日本でも「海外に開かれた四つの窓口」があり、

長崎はそのひとつであったということなのですな。



ひとつには蝦夷地 の松前藩がアイヌとの交易(略取?)を通じて、

北方の事物のやりとりをしていたと。

もちろん、ロシアなどと直接交易をしていたわけではないものの、アイヌ民族自体が

樺太や千島列島(もしかすると沿海州も含めて?)を自由に行き来していたでしょうから、

自ずとロシアなどの情報が入ることになったかもしれませんですね。


もうひとつは対馬藩を通じた朝鮮半島とのやりとり。

秀吉の朝鮮征伐で断絶した国交が、対馬藩の尽力で江戸期には回復、

当初は日本の情勢視察の目的であったという朝鮮通信使 がやがては

徳川将軍が代替わりする際にこれを慶賀する使節として派遣されるようになったとか。


朝鮮通信使一行の大行列

対馬藩も釜山に「倭館」という常駐施設を持っていて、

「朝鮮との交流を通して中国の情報や文物が流入」するものとして機能していたそうです。


そしてもうひとつは、薩摩藩が琉球との外交と交易(これまた略取?)を通じて

海外との窓口になっていた。最後のひとつはもちろん、幕府直轄の長崎。

対外的なパイプとしては長崎を通るものがやはり一番大きいですな。


ところで、その交窓口の相手先としてすぐと思い浮かべてしまうのがオランダであるのは

どうやら認識不足も甚だしかったようでありまして。


もちろん西洋社会との窓口である意味は大きなものであったと思いますが、

それ以上に歴史的にも古い付き合いで、かつ近くて…となれば

その影響大なるものがあろうと想像しない方がおかしかったわけでして、

上の地図でも想像されるように中国とのさまざまな情報や事物のやりとりは大きかったのですな。


そうした名残りのひとつが中華街…と言いますと、

中華街は横浜や神戸にもあるではないかとなりますけれど、

長崎の場合は「そんな急ごしらえの開港地と一緒にされたくないもんね」的歴史がありますね。

今の新地中華街とは別のところに「唐人屋敷」なるものが造られていたそうで。

元禄二年(1689年)完成ということですから、横浜、神戸は全くかなわないというべきでしょうか。


唐人屋敷の模型@長崎歴史文化博物館

「屋敷」といいつつ、その実は区画を限定した居留地でありますね。

広さは「出島」の約2.5倍、ここに多いときで3,000人の中国人が暮らしていたとか。

幕末になって廃止された折、ここにいた中国人が新地へ移り、

今の中華街があるということなのですなあ。


ということで、オランダやキリスト教といった西洋とのかかわりにばかりでなく、

中国由来のあれこれの要素が、日本のものとも西洋のものとも混ざり合って

独自の「長崎らしさ」を生み出しているのですなあ。


…と展示は当然にして長崎の文化の紹介にも向かうわけですが、

残念ながら時間的にじっくり見てまわる余裕がなく…。


だいたいからして、以前、幕末の新開港地・横浜 をちょいと歩き廻っただけでも

あれやこれやの史跡などに出くわしましたですが、

長崎もまた町中で石を投げれば史跡に当たるてな感じでありますな。


そんな町であり、そんな町にある博物館となれば、

やはりちゃあんと心の準備(とともに十分な時間)をもって来なければいけんのおと

思いながら後にした長崎歴史文化博物館なのでありました。