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「1800年の今日、伊能忠敬 が蝦夷地(今の北海道)の測量に出発した」ということで、

4月19日は「地図の日」なのだそうで。またその後の全国踏破の始まりにもあたることから、

「最初の一歩の日」とも言われるようですなあ。


ただ、「1800年の今日」とはいいましても、

伊能忠敬が蝦夷地測量に向けて第一歩を踏み出したのは旧暦の寛政十二年閏四月十九日、

これを今の暦に置き換えてみれば1800年6月11日となるようですから、

こうした暦の違いを考慮しないで記念日にしてしまったことを、
天文学者でもあった伊能忠敬はどんなふうに思いましょうかね…。


と、それはともかく、伊能忠敬は1800年に蝦夷地の南岸を測量して地図化していくわけですが、

文政四年(1821年)「大日本沿海輿地全図」が出来上がったとき(忠敬は1818年死去)の

蝦夷地南岸部分と最初測量データとを比べてみますと、最大で数Kmのずれがあったのだとか。


即ち再測量された結果が反映されている可能性があり、

そうしたことができる立場にあったのは弟子の間宮林蔵 をおいてなかろう…とまあ、

こういう研究成果が2014年に発表されていたようで。

その後に確定するようなニュースが出てこないので研究は続いているでしょうけれど。


最終的に蝦夷地の地図が間宮による再測量のデータに基づくものだとしても

伊能忠敬の功績は代わらぬものとは思いますけれど、

一方で間宮林蔵のことはもそっと知られてもいいような。


たぶん当時の蝦夷地はフロンティアとも考えられて、間宮林蔵はもとより

冒険心をくすぐられた人たちがたくさんいたのでしょうね。ほとんど知られていないのでしょうけれど。

そんな中で、思い出したのが松浦武四郎という人物なのですなあ。


伊勢街道の通る松阪生まれの武四郎、

諸国から往来する人々からさまざまな珍しい話を耳にする機会も多かったと思いますが、

余裕のある暮らし向きだったこともあって、気持ちは常にあちらこちらに飛んでいたようす。


そんな武四郎が蝦夷地に向かったのは28歳のときだそうですが、

ここで生涯の仕事に出会った感があったのではないでしょうか。

アイヌ民族との共存という、当時はおよそ目を向ける人も少なかったであろうことに。


明治の世になると開拓判官という政府役人としてさまざまな調査を行ったりもしたようですが、

そも「蝦夷地」という差別含みの呼称に代えて「北加伊道」との命名を考えたのが武四郎だとか。


アイヌの人たちにとっては「カイ」という言葉が自分たちの土地を指していることを踏まえて、
武四郎にとって旧来の蝦夷地はそもそもアイヌの人々の地という思いがあったのかもです。


これが正式には1869年(明治2年)「北海道」とされるわけですね。
東海道 やら西海道やら、古来使われた言い方と合わせるためでもありましょうか。

とまれ、蝦夷地はかくて北海道となりましたですが、
道内の地名にアイヌの言葉をたくさん取り込んで付けたのも武四郎の仕事であったそうな。


例えば道庁所在地である札幌もWikipediaによれば
「もともと『サッポロ』は豊平川にアイヌの人々がつけた名称」とあるようにアイヌ起源の言葉で
命名には武四郎が絡んでいたのではと思われるわけでして、そうでなかったならばもしかして
全く違う地名になっていたかもしれんなあなどと思うのでありました。


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