出張先でもわずかな時間を逃さずにどこかしらを見てまわることがありますが、
今回はさほどの空き時間を見出だせなんだものですから、さしあたり長崎で覗けたのは
長崎歴史文化博物館のみでありました。
しかしまあ、駅前からゆるく登っていく裏通りをたどっていきますと、
忽然と姿を現すお城然としたこの建物。後から分かったことですけれど、
ここにはかつて長崎奉行所が置かれていたそうな。
正確には豊臣時代に置かれた奉行所、江戸期に入り奉行が二人制になって設けられた
二つの役所、そして二つのうちひとつを山側に移転させた建物とあり、
全てが長崎奉行所ではあるものの、この博物館の地には
山側に位置する立山役所というのが置かれていたということでして。
まあ、幕府に代わって外国との窓口を一手に引き受けていた長崎ですから、
幕府の威厳を建物にも表す必要があったのでしょうなあ。
博物館とは混然一体の形で奉行所の建物が復元されておりましたですが、
なんとも立派なものでありましたよ。
といって、こちらの門から奉行所へとアプローチすると外観だけしか見ることができない。
先ほどの博物館入口がちゃあんと入場料を払って上がり込みますと、
奉行所には付き物の「お白州」を内側から、いわばお奉行様目線で眺められるという。
ちなみに「シーボルト事件などの裁判もここでおこなわれ」たと聞けば、
「おお、そうね?」と俄かに盛り上がったりもしてしまいます。
ところで、幕府により各地に置かれた遠国奉行の中でも長崎奉行は筆頭格であったそうですね。
その役割を大きく分けると五項目、展示解説から紹介しておくとしましょう。
- 長崎の行政全般(行政・司法)
- 西国一帯のキリシタン探索
- 異国船警備に関する西国大名の指揮
- 貿易統制に関する諸政策の監督と実施
- 抜荷(密貿易)取り締まり
「なかでも重要視されていたのがキリシタン取り締まり、貿易統制の監督と実施」とは
いかにも長崎ならでは。こうした仕事の大変さが奉行の中でも重視されたということでしょうか。
さりながら重い役割にはそれなりの見返りがあるもので、幕府の処遇も大変なものですな。
慶応元年(1865年)当時の収入は役高2,000石、役料2,000俵、在勤料3,500両ということで、
現代の貨幣価値に換算すると総計で年収6億円超となるそうでありますよ。
さらに(善し悪しはともかくとして)副収入があったとも。
ひとつは輸入品を安く先取りで買えてしまう点。これを大坂あたりで売り捌けば、
大層な利益が見込めたのだとか。
また、地元の役人たちや中国、オランダの商人からの付け届けですな。
毎年8月に贈られる風習は「八朔銀」と呼ばれていたそうです。
こうしたあたりの印象が強くあればこそ、展示解説の最初の最初に
「長崎奉行は巷で伝えられるように、蓄財のみに執心した奉行ばかりではありませんでした」と
言い訳めいた一文?が置かれているのでもありましょうかね。
おっと、ここで歴史文化博物館本来の展示に触れ始めると長くなりますので、
そのあたりはこの次へと送ることにいたします。