桜の季節が過ぎ去りますと、つつじの季節となりますなあ。毎年かように月日は巡っていくわけですけれど、ちょいと多摩センターに出かけますと、これでもか!というほどのつつじの植栽に行き当たったのでありますよ。
これでもまだまだほんの一部なのですが、この植栽を足下に置いて聳え立つのはこちらのビル、KDDI多摩センタービル。ネットワークの監視センターなどが入っているそうです。
で、このほど多摩センターに出かけましたのは、このビルのお隣にある別棟に「KDDIミュージアム」という企業博物館があるものですから、それをお目当てにという次第。要予約のガイドツアーで見学する形になっておりましたよ。
館内は4つのゾーンが連なっておりまして、ガイドの方の説明を受けながら巡っていくという90分コース。長いようにも思えるところながら、展示解説がなかなかに充実していて、できればじっくり(自由に)見て回りたかったなあとも。とりあえずは興味の惹かれたところを掻い摘んで。
電気通信技術の黎明期には電信、いわゆる電報が使われておりましたですね。ペリー来航の折には、日本への贈り物のひとつして、モールス電信機がもたらされましたですね。これはその複製ということで。
ところでしばらく前に、横浜をぶらりとした折に「電信創業之地」碑を見かけましたけれど、東京・築地と横浜の間で日本初の電報取り扱いが始まったのが明治2年(1869年)の暮れのこと。このブレゲ指字電信機はフランス製で、まさにその当時に使用されていたものであるとか。
左が送信機で、右が受信機。性能として通信速度にして1分間に5~6文字を送信できた(送信するのがやっと)とは、今から思えば「なんと悠長な…」ですけれど、それこそ当時は遠く離れたところから(文字数は少なくとも)瞬時に伝わることに腰を抜かさんばかりではなかったでしょうかね。
やがてデンマークの電信会社を頼んで日本海に海底ケーブルが敷かれ、国際通信も始まります。日本側の拠点としては長崎市に「小ヶ倉千本海底線陸揚庫(通称ケーブルハット)」が設けられ、なんとこの施設、明治期に開設されて以来(戦争による中断はあるものの)昭和44年(1969年)まで現役で使われたというのですから、すごいものですなあ。そして、面白いエピソードの紹介も。
明治4年(1871年)暮れに出発した岩倉使節団がサンフランシスコに到着した折、晴れて?国際電信網と繋がった日本に向けて電報を打ったのだそうでありますよ。当時はまだ太平洋の海底ケーブルは敷設されていませんでしたので、サンフランシスコを発した電報は北米大陸を横断し、その後大西洋の海底ケーブル、さらにユーラシア大陸をも横断して日本海のケーブルを経、長崎に到着したということで。
移送距離は3万キロ超となるものの、たったの1日しかかからなかったそうな(まあ、今なら瞬時ですが)。でもって、この電報が長崎から東京を回送されることになりますが、この頃の国内通信はまだまだ船便か飛脚だのみで、8日間もかかってしまった…と。
今からすれば笑い話のようでもありますが、国内の通信網整備とともに太平洋の海底ケーブルも敷設され、通信はどんどん早くなるわけですね。さらにケーブル自体が光ファイバーになったりして情報量も格段に増えていきますが、太平洋の海底ケーブルは、例えば日本海溝という極端に深いところがあったりして、メンテナンスなどもかなり大変なようですね。
ところで、展示を見て驚かされたのは実際に使われている海底ケーブルの太さというか細さというか。深い深い海の底を長い長い距離でつなぐものであることから、勝手に「太いもの」とばかり考えておりましたが、実際はそうでもないようでして。
ここには右から左へ段々と太くなる4種類が展示されておりますけれど、これまた意表を突かれたことには、太い方が浅海用、細い方が深海用であると。どうやら浅い海の方がダメージ・リスクが高いようなのですね。まあ、生き物もたくさんおりましょうし、漁業(底引き網とか?)の関係もあるかもしれません。
ともあれ、かような海底ケーブルは敷設するのもメンテするのも、特別な船が必要になりますなあ。個人的にすぐさま思い浮かぶのは切手に描かれた船でして、1969年に発行された記念切手です。
さすがに今では船の形もスタイリッシュになりましたなあ。もっとも見てくれよりも機能が大事であって、そこらへんの配慮はもちろんなされた上でのこととは思いますが、現在稼働している船の模型が展示されておりましたよ。どうです、なんだかかっちょええですよね。
と、掻い摘んでと言っておきながら、日本の国際通信の始まりから海底ケーブルのお話にまではなりましたけれど、無線通信から現代までの部分には至っておらず…。誠に相すみませんが、「後半へ続く」ということで(笑)。