4月、5月に引き続きこのほど6月のランチタイムコンサート@ミューザ川崎シンフォニーホールへ出かけてきたのでありますよ。前々回はサクソフォン・カルテット、前回はオルガンとピアノのデュオと、それぞれに個性あるプログラムが聴けたわけですが、今回はまた意表をついて?フラメンコギターのデュオということで。演奏するのは徳永兄弟…と聴いて一瞬、三味線を持ち替えたか?とも思いましたけれど、津軽三味線の方は吉田兄弟でしたなあ(笑)。

 

 

デュオ結成からすると10年選手にもなるようですけれど、昨2022年にメジャー・レーベルからCDデューとなった徳永兄弟、本場スペインで長らく修業・活動してきたこともあって、通常はクラシック音楽用のコンサートホールを立ちどころにタブラオのようにしてしまう。もちろん、情熱のフラメンコがそういう曲であるからでもありますが、オープニングのオリジナル曲「ブレリア・デ・パドレ」が終わるや否や、「ブラボー!」はともかくも「オーレ!」と掛け声が飛んだのはタブラオ慣れしている人でもありましょうか。

 

こうした反応を受けて、徳永兄弟の兄さんがやおら当日配付されたプログラムを取り出して、クラシックの演奏会ではもはや当たり前化している一文を読み上げたのですな。書かれてあったのは「曲が終ったとき、音が消えゆく余韻を十分に味わってから拍手、ブラボーなどをお送りください」ですが、これに対して「全く気にしなくていいです」と。人それぞれにグルーヴ感は瞬間瞬間でしょうから、自然に任せてどうぞというわけですな。なんとなれば、これは「ライブ」なのですから。

 

この感覚はおそらくクラシック音楽を聴いているときにも言えないわけではないところながら、クラシックの演奏会では何よりそこで奏らでられる音楽に没入したい(没入のあまり寝入ってしまう方も数多という現実ですが…)という聴き手が多いところから、聴く側としては「ひたすら静かに」が暗黙の了解となっている。つまり、音楽に合わせて「ノリ」を体感する「ライブ」と一線を画しているのはそのあたりでしょうなあ。

 

もちろんクラシック曲が演奏されるにしても、特別に(というのも変ですが)「ノリ」に合わせてもらっていい形、即ち「ライブ」的であって構わないことを標榜するコンサートもあるわけで、そこに出かけて「静かに聴けない」と憤ってしまうとれば、とんだお門違いなのではありましょう。ほんの一例ですけれど、ウィーンのニューイヤーコンサートのアンコールで「ラデツキー行進曲」が演奏されるとき、手拍子がうるさくて曲が聴けないなどと言い出せば、反って袋叩きにあってしまうでしょうしね。

 

ですからそんなことを思い巡らしてみますと、「ライブ」で音楽を体感するということと、CDなどの録音媒体を通じて音楽を聴くということとは、小野豆から求めるところが違うのだと思えてきますですね。ここまでのところでは、もっぱら聴き手の側の話でしたけれど、音楽の送り手(演奏者)の側としての意識はどうなのであろうか?とも考えてみたり。

 

自らの音楽を聴いてもらう術としてCDなどの録音媒体を制作するわけですが、そこに込めているのは「ノリ」という刹那感覚以上に永遠に残る(かもしれない)完璧さなのではないかとも。録音を聴き返して気になるところがあれば録り直したり、ミキシングなどにも細心の注意を払ったりしながら、自らの音楽の完全無欠を提供する姿勢の発露がCDなどの録音媒体には込められているような気がするわけです。

 

一方で「ライブ」となりますと、音楽としては完全無欠どころか、聴衆が発するさまざまな雑音?に終始さらされてしまうところながら、パフォーマーとして現れた音楽の送り手は、ここでは音楽が介在して送り手と受け手が共に盛り上がるような感覚をこそ感じてほしいと思っているとなりましょうかね。この両面性は、ある種、あって当然のように考えられてもいるようですけれど、よおく考えてみると何とも不思議な気がしないでもない。もっとも、普段多く耳にしているのがクラシック系の音楽、演奏会であるところの者なればこその思い巡らしなのかもしれませんですが。

 

と、そんな雑念?にも捉われつつも、フラメンコのギター・デュオによる熱演には魅せられたものでありましたよ。アンコールが「コーヒールンバ」であったというのも、個人的にはうれしい限り。何せこの曲についてはしばらく前に探究を試みて、原曲とはけだるいアンニュイさを醸す西田佐知子の歌と随分と異なる熱のあるものであったと気付かされていただけに、です。なかなかに楽しいひとときでありましたよ。