…ということで、ひっさしぶりに都心で20数年ぶりですかねえ、懐かしい再会の飲み会をしてきたのでして、まあ、若い頃にあれこれあったほどぐだぐだにはなりませんでしたが結構飲んだなあと。お泊り前提の安心感からかもですが、ともあれ、その飲み会を挟んだ土曜の午後と日曜の午後、どちらも音楽に浸って過ごしたのでありますよ。

 

取り敢えず土曜の方ですが、例によって読売日本交響楽団@東京芸術劇場の演奏会でして、読響には二度目の登場ですかね、指揮者は沖澤のどかでありましたよ。前回、2021年の演奏会でシベリウスの2番を聴いて(若くて小柄だからとイメージするのは適当ではないのでしょうけれど)ずいぶんとスケールの大きな曲作りをするものだなと思ったものなのでありました。

 

 

これまではとかく「ブザンソン国際指揮者コンクール優勝(2019年)の…」が冠になっていましたですが、昨2022年には急遽代役とはいえベルリン・フィルの指揮台に立ち、また今年の4月からは京都市交響楽団の常任指揮者に就任とは、マスコミ的注目度の高さとは別に実力が認められたということになりましょうか。

 

ただ、今回の演奏会プログラムでは曲の規模と聴衆の関心は前半というにはたっぷりした曲であるエルガーのヴァイオリン協奏曲を、あの(「真田丸」テーマの)三浦文彰が弾く方かも…と、前もって想像しまったり。それでも、後半にこそ指揮者のこだわりが詰まっていたようですな。演奏会で(オペラ全曲としてではなくして)ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」前奏曲が取り上げられますと(CDなどに録音される場合も同様ですが)お決まりとして(オペラ終わり部分の)「愛の死」とセットで演奏されて、「前奏曲と愛の死」がワンワードのようになっているのが常でもあろうかと。

 

さりながら、沖澤はまず「トリスタンとイゾルデ」前奏曲を単体で持ってきた上で、これにリヒャルト・シュトラウスの交響詩「死と変容」を続けて演奏するというプランで臨んだわけですのでね。これの意図のほどは読響HPに沖澤本人の弁が掲載されていますけれど、「死と変容(Tod und Verklärung)」は「死と浄化」という訳が当てられることもありますように、「Verklärung」の意を純化。理想化といった含みで捉える方がこの場合には分かりやすいことになるかもしれませんですね。

 

いささか言葉だけの話になってしまいますが、ワーグナー本来の終わりである「愛の死」では「ああ、死んでしまって終わるのね…」とも思ってしまうところながら、死によって愛は変容し、浄化、純化、理想化されるとまあ、高みに昇るイメージが想定されてくることにもなろうかと(極めて雑な言い方ですが)。

 

リヒャルト・シュトラウスの交響詩には実にキャッチ―なフレーズの出てくる作品が数多あるだけに、その中で「死と変容」は些か地味な存在と感じていた(個人の感想です)ものの、今回の演奏に接して何とも「映える」音楽(聴き映えするといいますか)なのであるなあと改めて。それだけ、沖澤の造り出した世界がこれまたスケール感あるものであったからでもありましょう。

 

後付けで知ったところながら、かのブザンソンのコンクールで優勝した際、「死と変容」は課題曲として取り組んだ曲であったとか。若いとはいえ、自家薬籠中の物としていると思えるのはこうした点があったからでもありましょうかね。この後は京響の常任指揮者として、どんなプログラミング、どんな曲作りをしていくのか、楽しみなところではないでしょうか。もっとも、東京在住者が京響の演奏をそうそう聴けるわけでもないのですけれど。