さてと、大阪・高槻を訪ねたお話は今城塚古代歴史館の展示に差し掛かったところで、邪馬台国時代の安満宮山古墳と、これに関わって弥生時代の安満遺跡とに寄り道をしてしまいました。ようやっと歴史館の展示を辿る話に戻って、ずんずんと古墳時代へと入っていくことにいたしましょう。
同じ大阪にあって世界遺産に登録された百舌鳥・古市古墳群ほどに知られてはおりませんでしょうけれど、高槻周辺もまた三島古墳群というたくさんの古墳が残る地域なわけですけれど、上の図(見えにくいでしょうから感じだけつかんでいただければと)には時代と位置で区分けた三島古墳群を構成する古墳が示されてあります。取り分け古い時代の安満宮山古墳は右側上方にぽつんと描き込まれておりますよ。
でもって、この図のちょうどど真ん中あたり、大きな前方後円墳が見えますですね。これが太田茶臼山古墳(茨木市)でして、展示解説では「三島の巨大古墳」と紹介されているのですな。
説明によれば「墳丘の長さ226m、周濠と堤を含めた全長は320m以上」とは、かなりの大きさです。上の展示にある写真でも分かりますとおり、太田茶臼山古墳は今も濠を巡らした前方後円墳の形がはっきりして、実に立派な佇まいですけれど、これもひとえに宮内庁が継体天皇の陵墓としてきっちり管理(発掘も見学ももってのほかと)しているからでもありましょうか。
ではありますが、5世紀半ばに築造されたというこの太田茶臼山古墳、亡くなったのが6世紀とされる継体天皇の陵墓とみるのは無理があるのではないか、むしろ太田茶臼山古墳から遠からぬところにあって6世紀前半に造られた今城塚古墳こそ継体天皇陵であると、学術的にはほぼそんなふうに見られているのでありますよ。時代が合わないばかりでなくして、宮内庁が管轄していない分、発掘に支障の無い今城塚古墳からは正に大王墓にふさわしい品々がざくざく出て来たりもしているということですし。
しかしまあ、なんだってかような取り違えのようなことが起こってしまったのであるか?見た目の問題は結構大きかったのではないでしょうかね。太田茶臼山古墳は上の写真でも分かりますように、いかにもな前方後円墳がきっちり残っているのに対して、今城塚の方は桃山時代、1596年の伏見地震(方広寺の大仏が壊れたときですな)の際に酷い崩落があり、見るも無残な姿になってしまったとか。
現在の宮内庁の見解、その前段としては明治政府による歴代天皇陵墓の確認にあたっては江戸時代の調査資料も大いに参考とされておりましょうけれど、戦国の世が過ぎていくばくかの平穏が取り戻され、また国学という日本の歴史に着目する学問が起こってきますと、天皇陵墓の探索が進められたことは、以前読んだ講談社学術文庫『天皇陵 「聖域」の歴史学』でも触れていたような。
そんなとき、『古事記』に曰く継体天皇は三島の藍野に葬られたとされる藍野のあたりに巨大古墳が二つあって、ひとつは確たる前方後円墳、もうひとつは(地震の記憶もあいまいになって)なんだか崩れた丘のようとなれば、どうしたって太田茶臼山の方に軍配をあげたくなるのも止む無いところかと。それにしても、今城塚ばかりが地震の被害に言及されるのは、こちらにだけ断層でも走っていたのですかね…。
とまれ、そんなこんなの曰く付きである今城塚古墳。またまた、歴史館の展示を通観するのを他所に、実際の古墳を見に行ったお話をしておこうと思う次第でございます。かつてはこのような姿であったということながら、果たして…。