かつては当たり前のように仁徳天皇陵と言われ、今ではそれが大仙陵古墳(あるいは大山古墳)と。

宮内庁では「仁徳天皇の御陵です!」として動くことがないようですけれど、

学者の研究によれば「本当に?」となり、誰の墓かもはっきりしないのに○○天皇陵とは呼べないとして、

別の古墳名で呼ばれることしばしなのですなあ。

 

はっきりしないのであれば、発掘調査などを行って手掛かりを探せばよさそうなものながら、

宮内庁の曰く、古えの天皇陛下の御霊を安んじている「聖域」を煩わせることはあってよいものではありません!

という反応が一貫して?続いており、調査の手が出せない状況にあるのですよね。

講談社学術文庫の一冊、『天皇陵 「聖域」の歴史学』はそのあたりに業を煮やしている?学者先生が

「だから、もそっと開いてよ」的思いをぶつけたものなのでありました。

 

 

歴代天皇は126人で、もっとも神話の時代を含めてこれだけになるわけですけれど、

明治の時代に、歴代天皇の陵墓で場所の分からないものがあるなど、諸外国にかっこがつかないてなことを

伊藤博文が言ったようで、その際にそれまでに亡くなられている天皇(および数々の皇族)の陵墓を

特定する作業が行われたそうなのでありますよ。

 

そこで、現在では一応すべての天皇の陵墓の場所が特定されているということに、

宮内庁的にはなっているところながら、冒頭に触れた仁徳天皇陵のように「本当?」てなものがいくつも。

しばらく前にちと探究した継体天皇の陵墓の場合などは、「本当?」という以上に

「別の場所だと思うんですけど…」という見方が示されていたりするという。

 

宮内庁によれば、継体天皇陵は大阪府茨木市にある太田茶臼山古墳とされていますが、

学説としては大阪府高槻市の今城塚古墳こそが継体天皇陵ではないかという説が有力だそうで。

太田茶臼山古墳を継体天皇陵と考えるには、築造年代と天皇の没年の不整合や

歴史上の記述と合致しないなど、困ったことがあるということなのですなあ。

 

こんなことが起こっているからには、太田茶臼山古墳の調査をして…と思うところながら、

先にも触れましたとおりに宮内庁としては「手出しご無用」というわけでして、

一方、幸いにも?今城塚古墳の方は宮内庁の管轄ではなくして、

文化庁管轄の国史跡として発掘調査も不可能ではないそうな。

 

ただ文化庁絡みでは、かつて高松塚古墳の発掘により壁画に剥落を生ずるといった大失敗がありましたので、

そんな様子を思うにつけ、宮内庁側としてはなおのこと「手出しは無用」と言いたくなるのかも…。

 

ということで歴代天皇の陵墓は全て特定されているとのことであるのですけれど、

決めた背景にはやはりあやふや感の拭えないものはほかにもたくさんあるわけで。

 

決めたときの材料からして、記紀に当たることはもちろんとしても(ただしそれがそもそも正しいか…)、

古代から明治に至るまでの間にすっかり忘れ去られていて所在不明状態だったものを

近隣の「ここがありがたい場所」といった伝承も頼みに、「じゃあ、ここということで」的な。

 

そんなことを考えるにつけ、宮内庁が天皇陵としている陵墓に調査の手を入れたくないのは、

埋葬されている方の御霊を安んじるてな表向きは表向きとして、その実、

実は違う人のお墓だったてなことが判明しては恰好が付かない…てなふうに思っているのではとも。

 

個人的な感想として、調査は何も墓を暴こう、お宝をかっさらおうという意図ではないでしょうから、

被葬者に対する一定の敬意と言いますか、十分な配慮の下に行われるとすれば、

多少なりとも発掘なりをさせてもいいのではなかろうかと思うところです。

それが日本の古代史に新たな知見ももたらす可能性もあろうわけですし。

 

いっそのこと皇室の方々に直接尋ねてみることができれば、快諾とまでは言わずとも

了承してくれるのではないですかね。皇室には研究者である方も多いですから理解があるかもです。

 

大臣なり役所なりが皇室に対して、大御心に適うようなどと考えつつ、

実際には勝手な思い込みであったことが戦争という大きな災いを内外にもたらしたことが

ついつい思い浮かんだりしてしまうところなのでありました。