先に物部守屋のことを書いた小説「磐舟の光芒」を読みましたときに、
このような記載に出くわしたのでありますよ。
大王(敏達天皇)は、越の国から出て来て新王朝を樹立した継体天皇の孫である。大王には越の血が流れている。
天皇の系譜が万世一系てなふうに言われたりすることを鵜呑みにするつもりはありませんけれど、
ここでの記載によるならば、継体天皇は越の国(つまりは越前、越中、越後というときの「越」ですな)から
突如やってきたようにも思えて「?」と思ったものですから、ちと探りを入れてみることに。
手にしたのは同じ著者による2冊の新書なのでありました。
先に訪ねた大仙陵古墳を含む百舌鳥・古市古墳群は巨大古墳が多いことで知られていますですが、
それは倭の五王として「宋書」に記された大王たちの時代の産物でもありますね。
巨大な古墳を築くことができる、つまりはそれだけ大きな権力構造があったとも思われるだけに、
これらの古墳に埋葬されたと思しき応神、仁徳、履中から雄略に至る天皇(というよりこのころは大王)の時代、
後継者争いが昂じて後継ぎ候補の皇子たちがずいぶんと亡きものにされてしまったりもしたそうな。
例えば倭の五王のうちの「倭王武」と目されている雄略天皇の場合ですと、
その即位の前から手に掛けた大王位後継の可能性があった者たちはといいますれば、
目弱王(仁徳の孫)、八釣白彦皇子、坂合黒彦皇子(いずれも允恭の子、雄略の兄弟)、
市辺忍歯別皇子、御馬皇子(いずれも履中の子)とざくざく出てくるのですから、恐るべきことではなかろうかと。
結果、直系とまではいわずとも血統の近しい世継ぎが払底してしまうという事態が生じたりも。
そうしたところに遠国から迎え入れられたのが継体天皇であったともいえそうなのですよね。
「記紀」には、五代さかのぼれば応神天皇に繋がるということをもって、
後継の正当化を図っているところながら、それってもはやかなりの遠縁なんでないのとも。
それだけに、応神、仁徳、履中の系譜に続く武烈天皇が近しい後継者がなくなったとき、
いささか皇統に繋がりはあるにしても、中央からは遠いところで土着していた勢力が
王権を簒奪したというような見方がなされたりもするようです。
簒奪とまではいかないまでも、おそらくその同時の権力構造とは違った形で
継体天皇即位を後押しする勢力の存在というのはあったことでありましょうね。
それまで勢威をふるった葛城氏が静かにせざるをえなくなり、一方で大伴氏、物部氏が台頭する。
担ぐ人たちの存在が際立つという点では、清須会議で三法師を担いだ秀吉を思い出したりもするところです。
ではありますが、担がれた継体天皇、即位したのは河内ということで、
その後も20年近くはようよう大和に入れないという状況が続いたそうです。
継体天皇の墓所と目される今城塚古墳が大阪府高槻市にあったりするのも関係ありですかね。
(ちなみに宮内庁が継体天皇陵としているのは、別の古墳だということです)
とまれ、大王(天皇)の系譜にはこのようなこともあったのですなあ。
相当に古い時代のことですので、「記紀」などの記録もどこまで信用できるのやらということもありましょうし、
「本当のところ」というのは見定めがたいのかもしれませんですが、いろいろあるねえと思った次第。
ところで、継体天皇は越の国(といっても広く、どうやら越前と目されるようですが)からやってきた一方、
個人的には例年この時期、越の国(といっても越後新潟)に出張しており、今年もまた。
さしあたり、2月9日には再びお目にかかる予定でございますが、それまでしばしお暇をいただきます。