先の小淵沢行きでは往路の道すがら、山梨県立考古博物館に立ち寄ったわけですけれど、帰途につくにあたって今度は山梨県立文学館を覗くことに。県立文学館は芸術の森公園の中にあって…ということは、ミレーのコレクションで知られる県立美術館と同じ敷地内に向かい合って建っているのですね。さりながら、何かと美術館の方にばかり目が向いて、文学館には久しぶりということで。

 

ちなみに美術館の方では白くまくんのつるっとした彫刻作品で知られるフランソワ・ポンポンの特別展が開催中でした(会期は6/12で終了)けれど、ポンポンの白くまくんにはかつて群馬県立館林美術館(ポンポン作品のコレクションがあります)でじっくり面会したことがありますので、今回ばかりは文学館へ直行ということに。文学館の方では、特設展「芥川龍之介生誕130年 旅の記憶」が開催中だったものですから。

 

 

それにしても、山梨県立文学館でなぜ芥川?と思ったりも。だいたい山梨出身である(山本周五郎、深沢七郎、檀一雄など)とか、山梨とゆかりが深い(井伏鱒二太宰治ら)とか言うことならば得心もいくわけですが、芥川の関わりはそれほどでもないような。寄贈コレクションがもとになって充実させてきた結果でもありましょうか。だいたい山梨県立美術館がジャン・フランソワ・ミレーと何か関係があったわけでもありませんから、同じようなことなのかも…。

 

とまれ、今回は芥川の特集ということで。ゆかりといえばゆかりとなる山梨への旅も含めて、若い頃から精力的に?あちこちへと旅した芥川の記憶を、書簡等を通じて垣間見ようという試みですな。それにしても芥川龍之介といえば、痩せていてどうにも神経質ぽく…というのも最終的には自死してしまうところからの印象なのかもしれませんですが、どうも旅という行動的なふるまいとはうまく結びつかなかったものの、いやはやずいぶんとあちこちへ出かけておりますななあ。

 

展示に見る記録の中では、東京府立三中(後の都立両国高校)に入学後、旺盛に動き回っていたようすが分かるのでして、14歳(旧制中学は13歳~17歳の5年制)の夏には友人たちと連れ立って品川から横浜まで徒歩旅行をした…とは、いささか映画『スタンド・バイ・ミー』を思い出せもしますですな。その後も山登りを含めて、あちこちに出かけています。17歳のときには槍ヶ岳に登っているのですけれど、当時はアプローチの交通事情が今ほど整っていませんから、上高地へも歩いていくのですから、体力勝負でありますねえ。

 

あたかも山岳部かワンゲルかという様子も伺わせながら、たくさんの旅をしていく芥川ですけれど、都度都度旅日記といいますか、手記のようなものを手帳に残したりしているのですね。1910年といいますから、18歳のときでしょうか、。とある旅の始まりに、こんな書き込みを残しているようで。

又旅に出たく相成り候。悲しさに先たつよろこびを得むが為に。やがては又かなしさのメロヂィをつづるべき小さなかなしみの一音符を得むがために。

こういうことをさらっと書いてしまうあたり、後に筆で身を立てることになる人だけのことはあるなあとも。その後、一高(旧制)から東大(当時は帝大)英文科に進んだ芥川は、在学中に『帝国文学』(東京帝大関係者の同人誌かと)に『羅生門』を発表、知り合いの紹介で夏目漱石宅での集まり、木曜会にも顔を出すようになったとか。

 

帝大を卒業する1916年(芥川24歳)には、久米正雄や菊池寛らと共に同人誌『新思潮』(第四次)を興しますけれど、発刊にあたっては漱石を「第一の読者」と想定したようですから、漱石への思い入れは強かったのでしょう。そんな思いがある中で創刊号に掲載された『鼻』を「漱石が賞賛し、文壇登場の契機ともなった」とは、芥川の喜びはひとしおであったろうかと。かように慕われた漱石が久米正雄とともに旅先にある芥川に宛てて送った手紙には、こんな記載がありましたなあ。

勉強をしますか。何か書きますか。君方は新時代の作家になる積でせう。僕も其積であなた方の将来を見てゐます。どうぞ偉くなって下さい。然し無暗にあせつては不可ません。たゞ牛のやうに図々しく進んで行くのが大事です。

なんとも漱石らしいと思えるも、芥川らに寄せる期待もにじんでおりますね。ちなみにこの手紙が書かれたのは『鼻』が賞賛されたというのと同じ1916年のこと。漱石自身は『明暗』を執筆中であったということですので、なんとはなし、後事を託すような雰囲気を感じたりもしてしまうところです。

 

とまあ、話はすっかり芥川の旅から逸れてしまっていますけれど、会場で配布されていた年譜や「旅の足跡」なる資料を見るにつけ、あちこちへ出かけたのであるなと思うわけですが、本の出版に絡む宣伝講演会で全国行脚を引き受けてしまったのも旅好きなればこそでありましょう。それ以前から体調を崩しがちであったようですけれど、この旅の途次からの手紙には「つかれた、つかれた…」とあるのが妙に生々しく思えますですね。芥川が自らの命を絶つのは、その数か月後のことですので…。

 

死の動機は「ぼんやりした不安」として知られておりますけれど、やっぱり元気はつらつとあちこちに出かけたという事実とはしっくりこない。いったいどこで芥川のボタンは掛け違ってしまったのでありましょうか。詮無い話ながら、もそっと生きてくれていたら、敬愛した漱石のような長編を残してくれていたかもしれんなあ…と思ったりしてしまったものでありましたよ。