ということで、思いがけずも山道をたどることになった都立桜ケ丘公園で、
大松山の頂上付近、そこに旧多摩聖蹟記念館はあったのですな。
山の中に忽然と現れる洋風建築には新興宗教っぽさを感じるところ無きにしも非ずですけれど、
かつて明治天皇がこの地に四度も行幸されたことに因んで記念館が建てられたということでありますよ。
建築を指揮したのは、宮内大臣として長らく明治天皇の側近くで仕えた田中光顕という人物。
元は土佐藩士で、土佐勤王党に加わり、後に中岡慎太郎と共に陸援隊で活躍した人のようですが、
攘夷の急先鋒でもあった人がかような洋風めいた建物を建てる差配をする…。
まあ、幕末から明治の人物群の中にはよく見かけることではありますけれど。
ともあれ、今でも侮れない自然を残す場所でもあるだけに、
明治の初め頃にはさぞかし野趣にあふれた土地であったのでしょう。
明治天皇が四たびもこの地を訪れたのは兎猟や鮎漁(多摩川の名物でしたな)が目的だったそうでありますよ。
その明治天皇の騎馬像が中央ホールにで~んと置かれた館内は撮影不可ということでしたので、
取り敢えずは入口だけ。「多摩聖蹟記念館」と揮毫された額の文字は、昭和5年(1930年)に
晩年の田中光顕が記したものであるということです(ちなみに、現在の正式名称は「旧多摩聖蹟記念館」と)。
ところでホール内、騎馬像を取り巻くオーバルな壁面などを使い、特別展が開催されておりまして、
これを見ようとの目論見もあって訪ねたわけでありますよ。
タイトルは「資料でたどる明治・大正期の博覧会」というものです。
1851年のロンドンで開催された万国博覧会。
徳川日本も(そして薩摩藩単独でも)1867年のパリ万博に参加しますけれど、
殖産興業の一助になると目を付けた明治政府は1877年に第1回の内国勧業博覧会を開催、
これが第5回まで開催されるとともに、その後には東京府が主催する博覧会などが
明治・大正期を通じて断続開催されたことが、展示では紹介されておりましたよ。
基本的には殖産興業目当てですので産業色が強いものと思いますが、
芸術の分野でもランク付けした表彰が行われるなど、かつての御用絵師だからと言って
安閑としては状況も出てきたのではなかろうかと。
展示解説を見ていて「なるほど」と思いましたのは、「芸術」、「絵画」、「彫刻」といった言葉がそもそも
外国の言葉をなんとか日本語に置き換えた翻訳語であったわけですなあ。
最初のうちは「書画」という括りがあったようですけれど、西洋由来の「絵画」という言葉が出来てくると、
「書」は切り離され、しかも「書は美術にあらず」として博覧会から「書」が消える事態もあったのだとか。
「書は美術にあらず」と主張したのは画家の小山正太郎だそうですが、
不同舎という画塾を通じて多くの後進を育てた小山だけに発言の影響力はあったのでしょうなあ。
されど、これに猛反発したのが岡倉天心であったと。いかにもな気がしますですね。
とまあ、展示を通じてもしばし明治に思いを馳せることになったわけですけれど、
記念館の向かいにはこんなお堂が建てられてあるのですなあ。その名を「五賢堂」と。
果たしてここで言う五人の賢人とは?と思うところでありまして、
どうやらこれが三条実美、岩倉具視、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允であると。
1968年、明治100年の際に建てられたということですけれど、
この頃でもまだまだ明治史観が色濃かったとなりましょうか。
まあ、明治天皇を担いだ人物たちということで、記念館そばのお堂の中に銅像となって佇んでおるようで。
(扉は閉ざされておりますが、記念館に申し出ると中を見られるようではあります)
さてとかように展示を眺めたのちには、旧多摩聖蹟記念館をあとにして一旦山を下り、
もうひとつの公園を目指して上り返すことになるのですけれど、それはまた次のお話ということで。