北川村「モネの庭」マルモッタン から車の移動ではさほどでなく、
幕末の志士のひとり、中岡慎太郎の生まれ故郷にやってきました。



ここには、30年足らずの短い生涯であった中岡の生い立ちから、維新前夜の動き、

そして志半ばにして坂本龍馬とともに近江屋で命を落とすまでをたどることのできる
「中岡慎太郎館」があるのですなあ。



リーフレットから引用しますと、幕末における中岡の活躍はこんなふうになります。

…慎太郎が維新に果たした功績は計り知れない。
薩長連合の実現。公家同士の協力体制の構築。薩土密約の締結。そのどれもが倒幕の大きな原動力となり、さらに明治維新の礎となったことは、歴史が示す通りである。

とまあ、こうなって来ますと「え?龍馬でなくて中岡?」てなふうにも思ってしまいそう。
何しろ土佐と言えば坂本龍馬、高知空港は高知龍馬空港てなことに

なってしまっているくらいですし。


ところが一般に、この一も二も無く坂本龍馬といった風潮のある中で、
中岡の功績は龍馬以上であることをほのめかしているような展示解説には
なんだか対抗意識がありありといった気もしてくるような。


元来、郷士とはいえ一応武士の坂本と大庄屋を務める家柄といってもやはり農民の中岡には
扱われて方がそも違ってしまうところでもあるかなと考えてたりもするものの、
どうやら土佐の事情というのはひと筋縄ではいかないようで。


土佐から出た長曾我部元親は四国内に大きく勢力を広げますけれど、
秀吉に降伏して土佐一国安堵となり、さらにその後息子の盛親が関ケ原で

西軍に与して敗れてしまい、 山内一豊が土佐に入ってきますな。


当時の旧長曾我部家臣団には兵農未分離の状態であった者たちが数多くいたようでして、
そうした人々が新領主を受け入れがたく叛乱を起こしたりしたという。


そんな経緯もあって、山内家譜代の家臣を上士に位置付け、
長曾我部以来の者たちを大きな身分差のある郷士としていくのですが、
中にはいっそのこと帰農して地域でそれなりの役割を果たす方を選んだ者もいたのだとか。

そうなってきますと、郷士と大庄屋の家柄は単純に士農工商的な割り切り方で
身分の違いを云々できないようでもありますよね。


こうしたことは後から「土佐と明治維新-中岡慎太郎をめぐって」なる一冊を読んだことで
知ったわけですが、この本の表紙つ使われた写真にはいささか驚かされるといいますか。



本を手に取って見るとさらにインパクトの増す、中岡の鬼気迫る眼光。
思い込んだら命がけといったようすが見る側にひし!と伝わるではありませんか。


これだけ見ても龍馬との人柄の違いは歴然と言った感じのするところながら、
本書で記された中岡の人となりを思うにつけ、
幕末のエポックメイキングな出来事、例えば薩長同盟の成立などに関わって、
龍馬だけでもだめ、中岡だけでもだめ、それぞれがそれぞれに立ち働いた結果と見るのが
自然なことにも思えてくるところでありますよ。


実は(というまでもなく)幕末史にはさほど詳しくないものですから、
名前だけは聞き知っていてもその実どういう人物でどういうことをしたかを
知らないままになっている人たちがいる。

中岡慎太郎もそうした人たちのひとりでしたですが、
これも機会とその方面へちと探究の手を伸ばしてみるとしますかね。