東京・多摩センターにある東京都立埋蔵文化財調査センターには昨秋出向いたばかりではありますが、

先頃に『土偶を読む』なる一冊に触れ、どのみち最寄りの多摩美術大学美術館を訪ねた折ですので、

改めて立ち寄ってみることにいたしました。

 

 

まっさきに出迎えてくれるのはこの「多摩ニュータウンのヴィーナス」ですけれど、

『土偶を読む』になぞらえれば、この頭の形はハマグリを象ったもの…?てなことになるところながら、

形はそうかもしれないけれど、人を象ったものではないと言い切られてしまいますと、うむむ…と、

これを見ても思うところでありますなあ。

 

ところで、先ごろ訪ねたときとは企画展の内容が変わっておりまして、

「現場のミカタ-発掘調査を読み解く-」という展示になっておりましたですよ。

 

 

「多摩ニュータウン遺跡群の「現場」を舞台に、モノが遺跡から出土したときの様子に目を向けてみ」たとのことで、

会場のようすはこんな具合ですが、まず最初には「竪穴住居の屋根とは?」とありました。

 

 

極めて単純に、竪穴式の住居は茅葺きの屋根なのでないの?と、

センター隣接の「遺跡庭園 縄文の村」を見ても思い付くところなわけですが、

そも文献も無い時代に屋根を描いた図版などあるはずもないですから、

改めて考えてみれば当然に想像の産物であると知れるのですよね。

 

では、その想像を巡らす材料は?と言えば、「現場」にありということになるようで。

発掘現場そのものは竪穴住居が建っていたであろう穴の痕跡が残るばかりですけれど、

その痕跡に交じって、「火災にあった屋根の一部が黒焦げになって奇跡的に発見された」のであると。

 

調査の結果、「茅で葺かれた屋根材まで見つか」ったそうでして、こうした発掘の積み重ねによって

かつては「こうであったろう」と窺い知ることができるよいうになるですなあ。ただ、この発見は

古墳時代の遺跡だそうですので、必ずしも縄文時代も同じだったとは言えないように思いますが、

縄文は縄文で別の発見がなされておることでしょう。

 

しかし、古墳時代を過ぎてなお、庶民は竪穴住居に住まっていたということは

先に訪ねた府中市のふるさと府中歴史館の展示解説でも見たところですし、

それどころか、小平ふるさと村でみた江戸期の新田開拓農民たちの住まいも

竪穴住居とそう大きな違いはなかったような。屋根については、茅葺きが遥か昔なのではなくして、

長い歴史の中では茅葺きでなくなったのがつい最近のことと思えたりもするところでありますよ。

 

 

続いては、発掘現場にはいろんなものが埋まっておりますなというコーナー。

考古学ですから掘り出す、つまり見つかるものは埋まっていて当然…と思うところながら、

ここで取り上げてられているのは、当時の人たちがわざわざ埋めたものに注目しておるのですな。

 

 

ひとつには埋めることが祈りにつながるとして考えられているもの。

これは甕棺であるということですので、まあ、埋められるべくして作られたものですけれど、

装飾を施すのも祈りの表現なのでありましょうか。

 

 

一方、こちらはそもそも埋められた状況で使う前提で埋められたもの。カマドだそうです。

大型の甕を二つ重ね合わせて使う工夫がなされていたのですなあ。

ちなみに「調理施設としてのカマドは、古墳時代に朝鮮半島から伝来し」たそうな。

もちろん粘土で作り固めたようですけれど、「骨組みとして石や土器、瓦などが用いられることもあ」ったとか。

 

カマド伝来以前は、要するに焚き火の直火だったのでしょうかね。

以前、併設されている「縄文の村」の方で、竪穴式住居の中で火を焚いているところに出くわしましたですが、

焚き方によっては建物内は50度にもなるということでした。この火を、カマドによって熱効率をうまく使うことで

食文化は大きく発展したのではなかろうかと思うところです。また、焚き火より圧倒的に火災は減ったろうと。

 

ところで、地層はミルフィーユのように重なっているわけですけれど、

それが歴史の積み重ねそのものであるとは誰しもしるところでありますな。

多摩あたりを縦に切ってみるとこんな具合で、当然にして出土品の年代も異なるわけで。

 

 

こんなようすからすると、とにかく掘れば何かしら見つかるような気がしてしまいますな。

もちろんすでに深く掘って造成されたようなところではすでに調査は済んでおりましょうけれど、

幸い?近くには段丘崖がたくさんありますから、その崖壁面をつぶさに眺めてみれば

「おお!」という発見が…そうはありませんかね(笑)。

と、妄想含みの古代史ロマンに浸るひとときでありましたよ。