東京、といって思い浮かべる都心エリアは徳川家康が江戸にやってきて以来、大規模開発が進んだ結果として

今に近い形ができますけれど、それ以前は海であったり、湿地であったりした場所が多いですな。

それに比べて武蔵野台地にある多摩の方は土地としては古いわけで、宅地開発などで掘り起こされると

あちらこちらで遺跡が見つかったりしますですね。

 

学術的にものすごい発見があるかどうかは別として、多摩地区では

ふいと中田遺跡公園椚田遺跡公園といった縄文の遺構を残す場所に出くわすわけです。

 

そんな具合ですので、多摩丘陵を巨大団地群に変貌させた開発では遺跡が見つからないはずがない。

ジブリ映画の「平成狸合戦ぽんぽこ」に描かれているように、元は狸や狐の住む場所だったとはいえ、

縄文の人たちが狩猟採集するには適地であったのかもしれませんから。

 

 

というところで、多摩センター駅からほど近い「遺跡庭園 縄文の村」を訪ねてみたのでありました。

周囲にはビル群があるのですけれど、ここだけ鬱蒼とした森になっておりまして、

これこそが縄文の人たちに恵みをもたらす環境であったのですなあ。

 

正式名称としては「多摩ニュータウンNo.57遺跡」ということですので、

番号からしてもニュータウン開発にあたってはそこここで遺物が見つかったということでもありましょう。

「縄文の村」のあるこの場所では縄文時代前期前半と中期後半の集落遺跡が出たということで。

 

敷地内にはそれぞれの時期の竪穴住居が復元されているのと同時に、

「当時多摩丘陵に生育していたと考えられる樹木が多数復元植栽されています」と。

早速ですが、縄文時代中期後半の復元住居はこんな感じです。

 

 

年代としては今から4500年ほど前、

「関東地方を中心に住居の床に平らな石を敷き詰める敷きつめる敷石住居が広く流行」したということでして、

1万年も続いたという、長い長い縄文時代にはさまざまな流行があったのでありましょう。

確かに内部は敷石がびっしりです。

 

 

木立に囲まれた順路を進んで行きますと、やはり同じ時期ながらもそっと大型の住居跡に到達。

ですが、中には炎が見え、煙もあがっているではありませんか…。

 

 

「すわ、火災か?!」とはちゃんと案内板を見ていましたので早とちりすることなく、

復元住居内では時折「火焚き」が行われているとのこと。なんでも茅葺屋根の保全のためだそうで。

確かに縄文の人びとはこの住まいの中で火をおこし、煮炊きしたことでしょうから、実状に適ってもいるわけですね。

 

覗いてみておりますと、「中に入ってかまわないよ」と縄文人…ならぬ、火焚きの係のおじさんが声をかけてくれました。

そこで、お言葉に甘えて縄文住居にお邪魔をしてみたのでありますよ。

 

 

ダイオキシンがどうのこうのと言われるようになって以来、「たきびだ、たきびだ、落ち葉焚き」なんつう光景も

とんと見られなくなった昨今、こうした直火に接する機会もないわけですが、縄文人の暖房はどんなものかと思えば、

これ、かなり暖かい、という以上に暑いくらいになるのですなあ。

 

おじさん曰く、近頃の建材の端材を燃やすと、室内温度は50度くらいにまで上がるのだとか。

もっとも縄文時代の人びとは、それこそ近くで薪を拾ってきて火を起こしたのでしょうから、

乾燥も十分ではなく、そこまで温度は上がらなかったものと思いますけれど、

ほぼ茅葺きだけで造られているこの住まいでこれほどの暖がとれるとは思いもよりませんでした。

 

そしてまたおじさんの曰く、「外にある木、見上げてごらん、実がついているだろう」と。

オニグルミの木だそうで、これを食用にしていたのですなあ。ほかにも栃の実なども。

つまり、縄文の森というのは単に木が多いのではなくして、食用にできる実などが採集できるところであった。

そういうところが近くにあってこそ、集落ができたということでありましょう。

 

 

もうひとつの復元住居はさらに大きく広く、さぞ大所帯で過ごしたのではと思うところでして、

皆の日々の食事をまかなうことができた場所なのでしょうね。

 

 

ちなみに大きな造りは縄文時代でも新しい方かと思うとさにあらず。

6500年前の縄文前期とは、先に見てきたものより古いようで。

この建物は長方形をしていますけれど、これが円形となっていき、3800年前ころから再び方形になるとは、

いつの世も流行といったものがあるのですなあ。

 

ところで、集落があるということは食べ物の心配ばかりではなくして、

当然に前提として確保されるべきものがありますね。どうしたって水場は必要でありましょう。

この再現集落はちょっとした丘の上にありまして、これを下っていった崖下にはやはり湧き水があったようです。

 

 

奥の方から沁み出していて、昭和の終わり頃までは使われていたと。

多摩ニュータウン開発にも耐えた泉だったのでしょうけれど、ついに力尽きてしまったそうな…。

 

とまれ、昭和の時代に巨大な「集落」のできた多摩丘陵には、

縄文の時代にあってはやはり多くの人が生活し、山や森、そこに生きる動植物とも共存していたのですなあ。

同じ集落でも「ぽんぽこ」のような騒動が起こることもなく…。

 

てな具合に「遺跡庭園 縄文の村」をひと巡りしたですが、何も唐突に復元住居がこの場に立ち並んでいるでなく、

お隣には東京都埋蔵文化財センターなる施設があるのですな。

展示などもあるということで、こちらも覗いてみましたですが、次にはそのお話を。