東京・府中の大國魂神社、その参道にはこんな碑があったのですな。
「大日本帝国海軍 軍艦多摩戦没者慰霊碑」とあります。
かつて日本の軍艦には地名が付けられることが多かったわけでして、
戦艦は大きく戦略的にも重要とされたからか、「大和」、「武蔵」、「陸奥」などと昔の国名が付けられてますね。
一方で巡洋艦、中でもここで登場する多摩のような軽巡洋艦と言われるタイプの船には
もっぱら川の名前が当てられたようですね。曰く、「阿武隈」、「北上」、「大井」、「天竜」などと。
ですので、ここに出てくる「多摩」は多摩川からの命名だったのですなあ。
と、それはともかく、やはり神社の参道に面して府中市の施設が建っておりました。
1階部分に展示室も備えた「ふるさと府中歴史館」、そりゃあ入ってみるわけですなあ。
あたり一帯が国史跡の武蔵国府跡に当たることから、ここにあるべくしてある施設でしょうか、
縄文以来、さまざまな年代の出土品などが展示され解説が施されておりました。
とはいえ、国衙での活動などを偲ばせる遺物を目の当たりにするのが、
もっとも往時を偲ぶよすがとなりましょう。このような円面硯は、いかにも役所仕事をしていたような、
そんな役人のようすが思い浮かぶところでありますね。
大がかりな施設ではありませんので単に展示解説ばかりが続くと思うところでしょうけれど、
実は(子ども向けとは思うところながら)今風な「バーチャルツーリング」なるものが結構面白かったりも。
国衙のようす、国司館のようす、そして町中に立つ市のようすを、
その中に入り込んだような感じになって体験したつもりになれる(?)ものでありまして、
今さらですが、飛鳥時代の庶民向けの建物はまだまだ竪穴式だったのですなあ。
そして、今よりもむしろずっと近隣諸国との関係は良好だったのであろうことも感じ取れたり。
古代の日本では、(大陸や半島からの)渡来人にさまざまな点で教えを受けていましたけれど、
大和という中心部から離れた武蔵国でも、埼玉県に高麗(こま)という地名が残るように
多くの渡来人がいたのですよね。
ここまでは予備知識であったものの、やはり埼玉県にある新座、これが新羅に由来するとは知りませなんだ。
半島を統一した新羅は7世紀半ば以降、唐との関係がほころび始め、また飢饉や疫病の影響もあって
日本に渡る人たちがあったとか。それだけ日本とは関係も良かったのでありましょうかね。
おそらくは新羅から渡ってきた人たちとは漢字を介したコミュニケーションを行っていたことでしょう。
大和王権の中央から遠く離れた武蔵国はただただ鄙の国であったわけでもないようでありますね。




