ムサビの美術館で見た4つめの展示の話の前に、ちと寄り道を。

同じキャンパス内にあって、前回訪ねたときには開室していなかった民俗資料室では

「紙・木・藁に見る祈りの造形」という展示が行われていましたので、そちらの方のお話ということで。

 

 

これまで民俗資料室にも何度か立ち寄って、「だるま」や「しめ飾り」などときどきの特集展示を見て来ましたけれど、

今回展はかつて何度かに分けて開催されたものの集大成というか、エッセンスというか、間口を広くとった展示で、

「祈り」に結びつくさまざまな造形を集めたものなのでありましたよ。

 

素材は、紙・木・藁とみな、いかにも日本らしいものでありますね。

例えば紙からは御幣、紙札、張り子のだるま、木からは神棚、木札、絵馬、

藁からはしめかざり、宝船、藁馬、藁蛇、災厄を防ぐための藁人形などが作られ」てきたということです。

 

こうした素材の中で、ふと目を止めましたのが藁なのでして。

藁と言えば呪いの藁人形を思い出すところながら、上のフライヤーにあるようにしっかと立ちはだかる構えの藁人形は、

災厄から守ってくれるという存在なのだそうですなあ。

 

そんな古来の発想が結構ないい歳の者にも伝わることなく、

まがまがしくもキャッチーな呪いの藁人形ばかりをイメージしてしまう。その他の「祈りの造形」についても、

本来の役割、意図するところの伝承がとだえそうになっているのが現在なのかも。

もっとも、東京といういかにも郷土感の薄れたところで生まれ育ったからかもしれませんですが。

 

と、実は藁で思い浮かべたのはそのことではないのでして、

藁というこの素材、考えてみれば弥生文化の稲作が広まったことの賜物なのだなあということなのですね。

 

これまであちらこちらの遺跡やそこから発掘された遺物を展示する施設を訪ねたりもしていますけれど、

特段意図しているわけではないながら、どうも縄文時代にまつわるものが多かったような。

直近では東京・多摩センターの「縄文の村」や東京都立埋蔵文化財センターであったりと。

 

そこで見る縄文式土器の豊かなデザイン性などに目を奪われ、なんとはなしに縄文びいきになっていたりする一方では、

縄文にとってかわった弥生文化にはいささかの僻目を注ぐところになってしまったもするのですなあ。

稲作の進行が土地の所有をめぐる争いを起こし、また権力者を生み出すことにもなったといった点で。

 

ですが改めて考えてみれば、稲作は米という食料の安定供給をもたらすと同時に、

藁という加工原料をたくさん提供してくれることにもなったのですよね。

 

その豊穣さと関わりから藁に縁起物の側面を見て、祈りの造形に利用することになるのでしょうけれど、

藁の用途は実に多種多彩。祈りの造形以外にも生活雑貨等に大いに利用されていたわけですが、

縄文びいきとばかりも言っておれず、弥生文化にもそっときちんと向き合うことも必要かなと思うところです。

農型社会は循環型と言われることがあるわけで、そのあたりも今だからこそ再認識してよいことかもしれません。

…これらの造形物は季節の節目やハレ(晴)の日に合わせて製作されますが、役割を終えるとお焚き上げなどで自然に還されます。紙、木、藁からなる祈りの造形物は、飾られた後、自然に還され新たな植物を育むための肥料となります。例えば正月に飾られていた門松、だるまは「どんど焼き」などのお焚き上げで燃やされ灰になり、灰は土に埋めることで田畑の肥料となって作物を育てます。このように、祈りの込もった造形物は飾られて役目を終わるのではなく、次の生命へと生まれ変わります。そこにあるのは、古くより日本に根付く循環・再生の概念です。

とまあ、藁は(といって紙、木もですが)このように循環して、いわゆるゴミとはならないのですものね。

ひと頃からお焚き上げどころか、冬の風物詩でもあったたき火も、ダイオキシンやらの関係で憚れるようになり、

一概に昔に倣えとは言えない世の中ですけれど、考え方として押さえておくところはありましょうねえ。

 

何やらすっかり「祈りの造形」からは離れたお話となりましたが、

思うところはあったのでとりあえずよしということにしておきましょうかね(笑)。