さて、武蔵野美術大学美術館を訪ねて「漆芸」の展示を見た後、今度は日本画の展示室へと向かいましたですが、

 これまた日本画のイメージを揺さぶるような、抽象的な作品が並んでいるようでありましたよ。

 

 

「DOOR IS AJAR ドアは開いているか」と題した日本画家・山本直彰の展覧会は

ムサビ(武蔵野美術大学)の教員を退任する記念展でもあるという。

1950年生まれだそうですから70歳定年でしょうか、それにしては若い感覚とも思える作品たちでしたなあ。

 

 

とまれ、中へ入ってひと巡り、ですが 出口側にも近い壁面の大きく飾られた一枚にたどり着いて

「おお、そうか!」と思ったものでありまして。

 

 

展示室内には「帰還」と題されたシリーズが何枚か掛けられておりまして、これもそのひとつで「帰還Ⅷ」。

シリーズだからと番号が進むに従って話が進行するとかいうわけではありませんけれど、

ひとつひとつの作品に物語が込められていそうですね。この展示室からして「第一章 物語の向こう」となってますし。

 

日本画の技法で描いているわりには(?)聖書や神話をモチーフにしているということでして、

西洋風の宗教画・神話画を描こうというわけではなくして、モチーフが持つ「物語」に注目しているようす。

作者の思いのほどが展示解説には、このように紹介されておりましたよ。

山本はキリスト教について、信仰心からでなく「文化」としてのあり方に惹かれ、自身にとって聖書は「文学」であると語ります。

なんだかすごく受け止めやすい言葉であるなと思うのですね。個人的に思うところが近いと感じる点で。

とまれ、「帰還Ⅷ」を見て「おお、そうか!」と思った…という、そのことですけれど、

左右にある柱はあたかも門柱のようであり、その間が真っ白になっているということは…。

 

あくまで勝手な見立てではありますけれど、「帰還」というタイトルどおりだとすれば、

何かが、誰かがこの門柱を通って帰ってくるさまが描かれていることになるわけで、この圧倒的な光は?となれば、

それはもう「神」でありましょうね。そして、帰還するとなれば、イエスがキリストとして復活してことであろうと思うところです。

 

そんな考えに至りますと、同じ展示室にある他の「帰還」もやはり同じテーマなのであったかと

見返してみれば、そのように見えてくるのですなあ。これも、あれも。

 

 

 

 

上の門まえはこれから強烈な光が現れる前の「兆し」のような。

そして、下の方は混沌の裂け目から光が差し込む瞬間といったふうで。

キリスト教に関わる作品としては、このようなものもありましたですよ。「Veronica(聖顔布)」という作品です。

 

 

昔、FM放送のクラシック・ライブでコペレントという現代作曲家の「ヴェロニカの汗拭きタオル」という曲に接し、

ずいぶん変わった曲名であるなあと思ったのですけれど、それは聖顔布の伝承をまだ知らない時でしたなあ。

今では聖ヴェロニカと聖顔布のつながりを分った上で、絵に向き合いましたけれども。

 

とまれ、絵画作品としてはヴェロニカの聖顔布を書き写すというよりも、聖顔布を作り出そう、

これこそが聖顔布なのだという思いのたけが感じられるような気がしたものです。

和紙に岩絵の具という日本画らしい素材が、むしろ効果的な印象を与えるのは不思議なものでありますよ。

 

そんな作品の数々は(全く予想もしていませんでしたが)実に興味深く、展示室をぐるぐる見て回ってしまいましたですが、

最後にはまた作者の言葉から。

文化とは自国のアイデンティティを掘り起こすことだけではない。抑えきれない異国への憧れから始まるものである。

この言葉に親和性を感じるのは、おそらく自分だけではありますまい…。