エンニオ・モリコーネ服部克久となんだか遅ればせの追悼が続いてしまっておりますが、

ここでは音楽学者の皆川達夫先生のことを。

 

と、やおら「先生」と言い出したのは、直接に講義を受けたことがあるというだけですが。

それも大学の一般教養ですのでね、大勢の学生を前にした講演会のようなもので、

こちらも「ああ、これがくNHK-FM『バロック音楽の楽しみ』で聴いていた人かあ」くらいの

感じではありましたけれど。

 

講義は音楽史のようなものでしたでしょうか、あまりよく覚えてはいないものの、

一度ベートーヴェンの「運命」を取り上げていた部分だけは妙に鮮明に記憶に残っているという。

 

曲を聴きながら、第一楽章の展開部でもって有名な「運命の動機」が

徐々に解体されていくさまを語っていたのでありますよ。

曰く、「タタタターン」が「タタターン」となり、「タターン」となって

最後には「ターン」だけになってしまうわけで。

 

たぶんソナタ形式の構成を伝える中での話ではあったと思うのですけれど、

音楽作りの深いところに誘われたような気がしたものなのでありました。

 

されど、皆川達夫本来の専門分野はバロック以前の西洋音楽ということになりましょうか。

中世・ルネサンスの音楽、そしてキリスト教に根差した音楽というつながりから

キリシタンの音楽をも研究対象にしておりましたなあ。

 

それだけにクラシック音楽を聴いていて、バロックを超えてそれを遡り、

またまた深い音楽の世界への道しるべともなったのが、先のラジオ番組であり、この一冊であったような。

 

 

今ではすっかり落ち着いておりますが、

ひところCDの収集(聴くよりも集めることが主眼でもあるかのように)に走った時期には

ずいぶんとこの本を参考にしつつ、古い音楽を耳にしたものでありますよ。

 

そんなわけで追悼の意味合いから何かしら古い音楽を取り出してと思ったわけですが、

先の「名曲名盤100」が直接にこの曲、この録音ということでなくして、

演奏団体としてあれこれの曲が推薦盤となっているタリス・スコラーズの演奏を。

 

 

ちょいと前に合唱のパワーを感じたことに触れましたけれど、この団体はさほどに多い人数では無いにもかかわらず、

(曲によって異なるものの、総勢10名程度でしょうか)これはこれでヒトの声の圧倒的な力を感じることになのでありますよ。

 

第1曲目、アレグリのミゼレーレはあまりによく知られた曲ながら、この1曲目からして大いに引き込まれること請け合い。

もっとも皆川先生の名曲100では扱われていない曲なのですけれどね。

 

とはいえ、ジョスカン・デ・プレ、イザーク、ラッスス、パレストリーナ、ヴィクトリア、タリス、ウィリアム・バードと

国も年代もさまざまな作曲家の曲が収められた2枚組、ルネサンス音楽の入り口にちょうどいいCDではと

思っているのでありますよ。

 

とまれ、ルネサンス音楽はもっぱら声楽中心なのですけれど、

ちと器楽の方に目を転ずれば、ジョヴァンニ・ガブリエーリという作曲家がおりますね。

 

初めて楽譜に強弱の記号を書き入れたり、通奏低音を用いたのもこの人からということで、

年代的には16世紀半ばから17世紀初めを生きた人ですので、ルネサンスの時代人、

されど先に触れたようなことを行って、曲を一段とドラマチックにした、

つまりはバロックとの橋渡しをした作曲家として知られるようです。

 

ルネサンスとバロックの違いはドラマチックさの違いでもありますよね。

絵画でもカラヴァッジョなどはそれまでにないドラマチックさを見せていますし。

と、そんなところでガブリエーリの器楽曲としてブラス・アンサンブルによる一枚を。

 

 

本当のところは皆川先生ご推薦のフィリップ・ジョーンズ・ブラス・アンサンブルで聴きたいところですけれど、

手元の一枚はクリーヴランド管弦楽団, シカゴ交響楽団, フィラデルフィア管弦楽団からそれぞれ金管奏者が

こぞって録音に参加したというものでして、かつては今より勢いがあったと思しきアメリカのメジャー・オケだけに

これまた音のシャワーをたっぷりと浴びる心地がするというものです。

 

ところで、声楽作品でも器楽作品でもルネサンス音楽に触れる機会を持ったわけですが、

考えてみると合唱も金管楽器も息を使って遠くまで音を響かすという音楽なのですよね。

昨今の状況では最もやってはいけない(?)ことによって音楽が成り立っている。

 

演奏会でも、弦楽器によるアンサンブルなどは比較的早くに再開できるようになっていると思う一方で、

声楽や金管楽器による圧倒的な音の洪水になかなか身を委ねることができないことにもなっていようかと。

以前に演奏会というものも、かつてとは異なる形の模索が必要かもとは書いたことながら、

呼吸というヒトが生きるために行う動きの延長線上にある音作りによる音楽の演奏が難しいとなると、

いったいどうしたものであろうか…と考え込んでしまうのでありました。