デマを飛ばしたり、声高に常識を語ったり…と言っては、のっけからネガティブな方向を指してしまってますが、
ヒトが声を発するとき、その多くは意味を持つ言葉として現れますな。
ですが、「ああ」とか「おお」とか「う~む」とか、いわゆる感嘆詞といわれる類いの音には
本来的に言葉としての意味があるわけではないものの、何らかの感情が伝わり、
感嘆詞を漏らした側の気持ちといいますか、その時の気分といったものを推し量ることができますね。
「ああ」とか「おお」とかいう音は、おそらくヒトが言葉を獲得する以前から
動物として持っていたのではなかろかと思うところですが、気分が通じるというのは昔々、
いまだ言葉を持たない頃からのコミュニケーション手段が今に至るもヒトに沁みついているのかもしれません。
ヒトの声に敢えて言葉をのせず、声を音として、楽器として使うという音楽がありますけれど、
(有名どころでは、ラフマニノフのヴォカリーズですとかね)
これは単にヒトは声としてきれいな音を出せるというだけではなくして、
言葉にせずとも感情に働きかけることができることを踏まえて作られているのかもしれんと思うわけです。
そしてまた、これはひとりの声でなく、マスになって、つまり合唱のような形になりますと、
そこには格別な効果が生まれるような気もしますね。
今さらながら(というのも、放送が始まってしばらく経ちますので)大河ドラマ「麒麟がくる」のオープニングを見ていて、
そんなふうに思ったのでありますよ。
放送初回を見たときには、音楽ジョン・グラムと出てきたので、
いわゆる時代劇にわざわざ外国人作曲家を連れてくるかな…と思ったり、
あえて和太鼓を使うあたりあざといんではなかろうかとも思ったりしたものですが、
だんだんになんとも好みに合う曲だなとは個人的に。
結構単純にテーマを繰り返すわけですが、その都度のアレンジで徐々に盛り上げていくのですな。
そして、極まったところで出てくる合唱がこの上なく効果的であるなと思うところでありまして。
ヒトの声の妙でもありましょうか。
だいたいパワフルな合唱にヒトの感情を揺さぶるところがありますですね。
いつのまにかTV番組でBGM的に使われるようになったオルフの「カルミナ・ブラーナ」などはいい例ですし、
全くもって目先を変えれば仏教の音楽ともいえる「声明(しょうみょう)」などは
ヒトの声に圧倒されるあまり、ともするとトランス状態にまで陥るところへ導いてしまう。
すごい力が秘められているものだと思うのでありますよ。
かついてヒーリング・ミュージック的にソプラノボイスが聴かれたことがありましたですが、
ヒトの声はきれいな音楽を奏でる楽器であるのはもちろん、そればかりではないものがある。
ただ聴く側ばかりでなく、歌う側の人口、つまりは合唱人口がそれなりに多いのも、
歌っているときに周囲の声に取り巻かれることで恍惚感が生まれたりするからかもしれませんね。
大河ドラマのオープニングからの思い巡らしとしてはずいぶんと飛躍した感もありますけれど、
あらためてヒトの声を気に留めたひとときではありました。