江戸東京たてもの園 の看板建築エリア を見て回っている話がまだ続いておりますが、
お次の建物はこちら。荒物屋を営んでいたという丸二商店、
昭和初期に建てられたものだそうです。
今となっては「荒物屋」という言葉も死語と化しているやに思うところですね。
家庭で使うさまざまな道具を扱っていたお店ですので、雑貨屋とも言えるところながら、
雑貨屋さんとは今のご時世、ともすると東急ハンズとかロフトとか、
そうした洒落た印象で捉えてしまうかもと思うと、おいそれと言い換えもできないような。
まあ、ホームセンターが個人商店になったようなそんな雰囲気と言えば、
当たらずとも遠からずでしょうかね。店内の再現はこんなふうでありました。
ところで、そんな品物を買って使う庶民の暮らし。その再現もまた、
丸二商店の裏に続く形で長屋と路地が作られておりましたですよ。
今でも場所によっては、例えば佃島の辺りとか、
こんなふうな佇まいを残しているエリアもないではないですね。
板壁にはホーロー引きの看板が打ち付けてあったりするのもリアリティーあるところかもです。
たぶん看板も本物なのだと思いますが、ボンカレー
とかオロナミンCとか金鳥とかの
いわゆる定番的な看板ではないだけにどうも馴染みがないので、ちと検索を。
「増田胃腸丸」というのは奈良県の製薬会社である増田製薬株式会社の胃腸薬。
同社HPには「配置家庭薬製造販売業」とありますから、
要するに越中富山の薬売り的な感じの「置き薬」の業者さんということのようです。
今でも「新増田胃腸丸」としてあるそうですが、初めて知った薬でありました。
次いでは「青星ソース」とやら。
元々は東京・台東区のソース会社が作っていた製品のようですが、
その後の合併・統合などで今ではユニオンソースになっているということで。
ユニオンソースに社名変更されたのが昭和44年(1969年)で、
「青星ソース」という商標もそれまでだったとすれば、知らなくても当然かなと。
もっとも「ユニオンソース」も知りませんでしたけれど、
南極
探検隊が使っていたところからペンギン
のマークとなったとは
それなりに知られた存在なのかもしれませんですね。
もうひとつの「ダイヤ焼酎味淋」、これも知りませなんだ。
日本酒類という会社がダイヤ焼酎、ダイヤみりんなる商品を製造していたそうですが、
昭和35年(1960年)に協和発酵と合併、後に焼酎は協和とアサヒビールの合弁会社が製造し、
合弁解消(協和発酵は現在キリンのグループ)に伴って焼酎製造はアサヒが引き取り、
今でもダイヤ焼酎はアサヒが作っているそうな(みりんの方はよく分かりませんでした)。
協和発酵からアサヒへ受け継がれた点では
サントネージュワイン
なんかと同じ道を辿ったのですなあ。
ともあれ、かようなホーロー看板が壁に取り付けられているということは、
その長屋の住人が購買層であったということでしょうかね。
表通りの荒物屋で買った鍋釜で煮炊きをし、青星ソースで味をつけ、
時にはダイヤ焼酎で一杯やって、どうも胃腸が…というときに増田胃腸丸を飲む。
そんな庶民がこの長屋の六畳一間に住まっていたのかもしれませんですねえ。






