相変わらず江戸東京たてもの園 を巡ったことを書いておりますが、

西側のゾーンをひと回りした後は東ゾーンへ。


センターゾーンというエリアもありますけれど、

そこのメインとなる高橋是清邸が修復中だったものですから、
これをまたの機会にとして、取り急ぎ東側のゾーンへと向かったのでありますよ。


江戸東京たてもの園の看板建築通り

こちら側の一帯は看板建築の多く並ぶ商店の建物が主となるエリアでして、

まずはこちらの村上精華堂というお店に入ってみることに。

化粧品屋を営むお店だったようですね。


村上精華堂@江戸東京たてもの園

ちなみに「看板建築」は「大胆な和洋折衷と個性あふれるファサード(建物の正立面)」が

見所であるてなことが解説板に書かれてありましたですね。


この建物の場合には、実は瓦の載った寄棟の屋根を隠すようにして、あたかも全体が

石造りの建物であるかと思わせる柱を並べたファサードが立ち上っている点でしょうか。



この列柱は柱頭が渦巻き型になっていることからイオニア式でして、

古代ギリシア風を模した柱としては他にドーリア式(柱頭に装飾が無い)、

コリント式(イオニア式は別として、柱頭に装飾がある)てな様式があると、

これも解説が施されておりました。


関東大震災後にはこうした看板建築が「東京市内に多く建てられた」とのことですが、

今や都内で時折発見できると「おお、看板建築!」というくらいになってきてますねえ。


ところでこの村上精華堂、化粧品屋であるとは言いましたですが、
実は化粧品の製造販売をしていたのだどうでありますよ。


明治以降の日本は欧米化の波にさらされ、

「それまでのお歯黒、眉剃りなどは政府の指導により廃止の方向となった」りしますが、

お上のご威光ではあるものの、明治期の女性はまだまだ
「和装で日本髪を結い、結婚したあとはお歯黒をする女性が多かった」ようす。


ようやくにして「西洋風の化粧と化粧品が輸入されるのは20世紀に入ってから」だそうですが、
需要ありと見込んでそれが国内に無いとなれば自前で作ってやろうと思う人が

当然出てくるものなのですなあ。


「業者の村上直三郎氏は、アメリカの文献を研究して化粧品を作ったと

言われて」いるそうですから、草分け的な存在だったのでありましょうかね。


「ポマード、香油、香水、バニシングクリーム、コールドクリームなど」といった品目を
家内制手工業的に製造していたというものの、一般の調理器具を使って作っていたとは…。
かような場所で白割烹着を掛けて、せっせと製品作りをしていたんでしょうか。



解説には「志のぶポマード」の作り方というのがありましたので、参考までに。
(「志のぶ」というのは村上精華堂の商標だったようです)


1.ヒマシ油、白蝋、色素、香料を計測し、寸胴鍋の中で調合する。
2.火にかけて煮沸し、木製の攪はん棒で混ぜ合わせる。
3.煮沸後に水と氷を入れた水槽の名へバットに流し込んだポマードを入れる。
  (急激に冷やすと粘土がちょうど良くなる)
4.バットからヘラを使ってガラス瓶に詰める。その後、レッテルを張り、紙箱に入れて完成。


こんなふうにやればポマードは作れるのですな。

もっとも、今では需要があるかどうか。ですが、当時は売れたのでありましょう。

完成品の小売り分は店頭に回って販売され、香水などは量り売りされていたようですね。



それにつけても、何かと懐かしさのこみ上げてくる看板建築でありますねえ。