板東俘虜収容所
ではドイツ人捕虜の中で技術を持つ者たちが
ウィーン分離派を思わせるデザインの印刷物を数多く生み出していた…とは
先に書きましたですが、彼らが帰国していった頃にあたる1920年、
日本では若手建築家が集まって「分離派建築会」を結成していたのですなあ。
「アカデミズムからの分離」を掲げた美術運動に影響を受け、「我々は起つ。
過去建築圏より分離し、総ての建築をして真に意義あらしめる新建築圏を創造せんがために」
という堂々たる宣言を表明して、東京帝国大学建築学科の同期卒6名が集ったそうでありますよ。
メンバーの有名どころ(建築に詳しい方にはメンバー皆が有名かもですが)には
永代橋や聖橋
、新潟の萬代橋
といった橋や日本武道館の設計を手掛けた山田守
がおりますが、
小出邸の設計者である堀口捨己もそのひとり…ということでようやっと、
江戸東京たてもの園の話になるのでありました。
掘口捨己も創立メンバーのひとりである分離派建築会はごてごてした装飾よりも
建物自体に機能美を見出すようなところがあったように思うところではありますが、
いわゆるモダニズムを指向しつつも「和」の伝統には結局のところ目が離せなかったのかも。
外観はモダンな堀口の小出邸も一歩中へと入りますと、
畳敷きの部屋がふすまで仕切られ、外の縁側でつながるさまは
「ザ・にっぽんの家」っぽく感じられるところではありますまいか。
まあ、建てられたのが1925年(大正14年)だったとなれば、いたし方なしでもありましょうか。
風呂場に目を転じますと、むしろ古えの日本家屋のまんまでもあろうかと思ってしまいそうです。
考えてみれば、江戸期までは限られた建築資材を使っていたとの制限はありますけれど、
日本の、もそっといえばその地域地域の気候風土などとの折り合いをつけながら
長い時間を掛けて工夫された結果が日本家屋に詰まっているのでありましょう。
となれば、限られた資材では無しえなかったことが明治以降にはできるようになったとしても、
見かけ等々の斬新さを追求したりはするものの、どこかしらで伝統を振り返り、
それをいかようかの形で取り入れるという発想は出てきて自然なことなのかもです。
ジョサイア・コンドル しかり、アントニン・レーモンド しかり、前川國男 しかり、堀口捨己しかり、
そして(ここまでに名前は出してませんですが)ブルーノ・タウト しかりと。
小出邸は1925年に建てられて以来、住む人たちの代替わりを経てなお、
1996年まで住み続けられたということですから、やはり「何かしらしっくりくる」ものを
住み手に与える住宅だったのかもしれませんね。