どこだかでフライヤーを入手し、期間は9日間と短いものなれど
「これはいかねば!」と思っていた展示を見てきたのでありますよ。
小さな小さなBunkamura Box Galleryで開催中の「板東俘虜収容所」の世界展です。
日本におけるベートーヴェン「第九」
初演はこの板東俘虜収容所で行われたとは
昨2018年が初演100周年だったこともあって、よく知られるところではなかろうかと。
しばらく前には「バルトの楽園」てな映画も作られてましたっけ。
ところで、実はこの収容所内での「第九」は日本のみならずアジア初演であったようですが、
展示で改めて驚かされるのは、捕虜(第二次大戦以前は「俘虜」が使われていた)の人たちの
多彩な活動なのですよね。
元来この収容所は、第一次大戦に際して、日英同盟を名分に漁夫の利を得ようとした日本が
(と、この言い回しにはちと誇張があるやもしれませんですが)連合国側で参戦、
ドイツが租借地となって要塞の築かれた青島を攻略し、1914年にドイツが幸福したことで
約4700名のドイツ兵が捕虜となったことに始まるのですな。
当初は国内12カ所に散らばって収容されたところがやがて、
習志野、名古屋、久留米など6カ所に集約されますが、
そのひとつが徳島県の板東で1000人ほどの捕虜が収容されたのだそうです。
1886年、ジュネーブ条約に加わった日本には、その精神がきちんと刻まれていたのか、
収容所内で捕虜には人道的な配慮がなされ、「ドイツ兵が仲間に対し物販や各種サービスを
提供することを許可」していたといいます。
そうした環境の中で、所内には食肉店、喫茶店、菓子店、印刷所、写真屋、ボーリング場、
さらにはプライベートな時間用の別荘までがあったとは、後の時代の収容所のイメージとは、
(取り分け昨夏にベルリン
を探訪してきた者としては)大きく異なるもので思うところです。
また、収容所近くの地元民との交流も友好的であったのでしょう、展示資料の中には
ドイツ人職人に洋菓子の製法を学んだ日本人に発行された「修業証書」もありました。
板東での収容者ではありませんが、日本にバウムクーヘンをもたらしたカール・ユーハイムは
やはり青島で捕虜となって日本に送られた一人でありますね。
解放後も日本にとどまって神戸に喫茶店を開いたのが、後の洋菓子メーカー「ユーハイム」とは
なかなかに熟練の職人たちが各地の収容所にいたのかもしれませんです。
ところで、板東収容所の中には印刷所もあると紹介されていましたですが、
展示にも所内で製作されたという印刷物が数多く展示されておりましたよ。
こちらの方も熟練工の仕事というのみならず、デザインの面でも注目しておきたいところかと。
本展フライヤーの中央に配されたものは「第九」初演時のコンサート・プログラムの表紙でして、
中央に配された人物像はマックス・クリンガーの造ったベートーヴェン像を模したもの。
ウィーン分離派の展覧会でクリムト
の「ベートーヴェン・フリーズ」と共に展示されたという
彫刻であるだけに、これを用いた職人さんはデザインの時流に敏感だったということでしょうか。
なるほど他の多くの印刷物からもウィーン分離派あるいは
ユーゲント・シュティール の雰囲気を見て取れるような気がしたものでありますよ。
ところでこうした板東俘虜収容所に関して、
小ぢんまりながらも紹介する展示が行われるのかと思いましたら、
収容所のあった徳島県鳴門市、そして姉妹都市であるドイツのリューネブルク
では
関連する資料をユネスコ「世界記憶遺産」への登録を目指しており、
その一環として板東俘虜収容所のことを広く知ってもらおうということであるようす。
第一次世界大戦の終結によって、日本で収容所生活を送っていたドイツ人捕虜たちは
1919年から1920年にかけて段階的に帰国していくことになりますが、
捕虜だった方が描いたという展示のイラストにはなんとなく収容所との別れを
名残惜しく思っているかのように、門前で振り返り手を振っているところが描かれていたり。
もちろん収容所での日々はどこにも行ける、なんでも出来るという自由さはないものの、
戦時下で国どうしは敵対しても、ひとりひとりに立ち返ってみれば皆同じ人間だものねという
感覚がおそらくは「捕虜は預かりもの」といった気持ちに繋がったのでもあろうかと。
そうしたことをヒトが記憶するためとなれば、「板東俘虜収容所関連資料」を
記憶遺産とする意味は大いにあろうかと思ったものでありますよ。