プロダクションの違いを楽しみにするほどの通ではないものですから、

オペラはたまに見に行く程度ですけれど、あまり見る機会がなさそうなものには

ついつい飛びついてしまいがち。


日本ではこれまでに演奏会形式での上演があっただけで、

実質的には今回が日本初演というくらいにレアものであるらしいと聞き及び、

リヒァルト・シュトラウス のオペラ「ダナエの愛」を見に行ってきたのでありますよ。


二期会公演「ダナエの愛」@東京文化会館大ホール


ギリシア神話のダナエのエピソードとミダス王のエピソードはそれぞれに有名ですけれど、

両者を部分的に使いながら全く新しい物語に仕立て上げたお話でありました。


ご存知のように、ダナエは主神ゼウスに見染められ、

黄金の雨となってダナエに降り注いだゼウスの子を身ごもり、ペルセウスが生まれるというお話。


グスタフ・クリムト「ダナエ」


そして、ミダス王は黄金大好きなあまり、

アポロンから触るものは何でも黄金に変えられる能力を与えられるも、

本当に何でも金になってしまうので、食事もできず、娘まで金に変えてしまうありさま。


「お願い、元に戻して」との願いがかなえられる代償は、耳がロバの耳になってしまうというもの。

で、「王様の耳はロバの耳」で知られる王様ということになってしまいますですね。


ここでのつながりは「黄金」ということであって、

夢で見た黄金の雨の抱擁を忘れられないダナエと黄金をもたらす王ミダスとの結び付ける

発想が生まれたのでありましょう。


ただ、背景としてダナエの父の王国は借金苦に陥っており、取り立て厳しき折、

ダナエの結婚相手には大金持ち、例えばミダスなどは最適…といった2時間ドラマっぽさが

用意されてもいるのですけれど。


ここでのお話ではミダスに何でも黄金に変える魔力を与えたのはユピテルになってまして、

(このオペラでは神話の神々がギリシア名でなくしてローマ名で出て来るので、以降はそれで)

その力をミダスに与える代償は、ユピテルが求めたときにはミダスの姿形はユピテルに譲られる

というもの。


ユピテルにとってもダナエは忘れられない存在となっており、ミダスとダナエの結婚話に乗じて、

ユピテルはミダスの姿を得てダナエの前に姿を現すのですな。


ですが、ダナエはユピテルの先乗りで派遣された使者(実は本当のミダス)に

心を寄せるようになっていたという。


これを知ったユピテルはあらゆる幸福(?)を与えられると口説くのですが、ダナエは拒絶。

怒り心頭のユピテルが巻き起こした雷で世界は廃墟に。

ダナエと本当のミダスは二人、茫然とするもやがて二人の愛の結晶も得て

慎ましやかな満足に穏やかな日々を送るのでありました。


てなふうに言ってしまいますと、実にやすぅいメロドラマみたいな気がしてきますが、

実際、見ていて「うむぅ~」と思ってしまうこと、無きにしもあらず。


ユピテルは単なる出歯亀オヤジみたいでもあり、途中でかつてモノにした女性たちに囲まれて、

「私のところへは雲になって…」とか「牡牛の姿で現れて…」とか始まったときには「おいおい…」と。


そんな下世話な話にあって「ダナエの愛」とのタイトルは、

要するに「足るを知る」ということなのでありましょうね。


シュトラウスの音楽がいちばんメロディアスに寄りそったのは、最後の廃墟の場面。

何もないであろう中で、ダナエが健気にも炊事をする、まさにそんなシーンでありましたから。


リヒァルト・シュトラウスはナチス政権下に帝国音楽院総裁という要職に就任していたことから、

政治姿勢といか、政治感覚を疑われるところがありますけれど、

この「ダナエの愛」の作曲は1940年であったそうな。


おそらくはナチス・ドイツ にしてみれば破竹の快進撃の最中でもあったろうかと。

そうした中で全能者が究極の幸福を与えるということに背を向けて、

ささやかな満足を選ぶダナエを描くことはおよそ帝国音楽院総裁らしからぬような気が。


そしてダナエを得られないことに悶絶するユピテルの姿に

「お前こそ足るを知れよ」と言ってやりたくなりますが、

何でも手に入るがごとき勢いにあったナチス・ドイツにも

同じことを言ってやりたいところでもあろうかと。


そう考えてくると、借金苦に苛まれる始まりの部分からして

第一次大戦後のドイツが補償金地獄に陥っていたことと無縁ではないようにも。


と、この方向ばかりの話ではなんですので公演の方に話を戻しますと、

相当にクリムトを意識した演出になっていたなあということ。


グスタフ・クリムト「接吻」(部分)


上に挙げた「ダナエ」ばかりか、劇中ダナエが纏う黄金の衣の柄は「接吻」そのもので、

ダナエとミダスの接吻シーンの姿形もまさに「接吻」そのもの。

他にもユピテル取り巻きの女性たちの髪型が「ベートーヴェン・フリーズ」その他で見かける

クリムトらしさがありましたし。


グスタフ・クリムト「ベートーヴェン・フリーズ」(部分)

これは演出だけのことなのか、

そもそもリヒァルト・シュトラウスもクリムトの絵画を意識していたのかは分かりませんけれど、

金ぴかでもあり官能的でもあった世紀末との時代の違いは意識していたかもしれませんですね。


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