このところ天草・島原へ行きませんか的なお誘いの

JALだかANAだかのメルマガが届くなあと思っておりましたら、

「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」というのが世界遺産 に登録されていたようで。


恥ずかしながらちいとも知らずにおりましたですが、

先ごろ放送されたNHK「歴史秘話ヒストリア」のスペシャルを見て「ほおほお」と。

ま、そんな絡みがあったからというわけでもないのですけれど、

國學院大學博物館 で開催中の特別展「キリシタン―日本とキリスト教の469年―」を

見てきたのでありますよ。


なんでも1549年にフランシスコ・ザビエルが日本でキリスト教の布教を始めてから

今年2018年は469年目に当たるのだそうで(ずいぶん半端な年に振り返ってみたものですなあ)。


特別展「キリシタン―日本とキリスト教の469年―」@國學院大學博物館


國學院といえば「ああ、神道の」となるところですが、宗教研究をする中では
キリスト教の西南学院大学と交流もあるようで今回はジョイントの企画でもあり、
また國學院は考古学研究でも有名ですな。
登呂遺跡の発掘にも携わった樋口清之教授は國學院大學の教授だったわけで。


確かに國學院大學博物館には考古学関係の展示室がありまして、
たくさんの出土品が見られるてなところながら、今回はその博物館の片隅での特別展。
考古学と言いますと、やたらに古い時代を扱ってばかりいるように想像してしまいますが、
キリシタン考古学などという分野もあるのだそうでありますよ。


展示物から一例を挙げれば、島原の乱で有名な原城跡からは
十字架やメダイ、ロザリオなどが掘り出されている…と、

これもやはり考古学分野なのですなあ。


ちなみに「島原の乱」とは昔々学校の日本史の授業で聞いた名称ながら、
今ではあまり使われていない言葉のようでありますね。
展示の中での用語としては「天草・島原一揆」でしたですが、
これも熊本県側からすれば「天草・島原一揆」であって、
長崎県側にしてみると「島原・天草一揆」ということになったりするのだとか…。


ともあれ、日本で禁教となったキリスト教の信者たちが苦難の信仰生活を送ったことは
(具体的事例まで思い浮かぶかは別として)よく知られたところですけれど、
キリスト教伝来以前、宗教的なものを混淆させながら受容してきた日本人 にとっては
信徒のキリスト教至上主義的なところには戸惑いは多かったのかもしれませんですね。


その信徒がなまじ権力を持っていたりしますと、大友宗麟 などのキリシタン大名が
領内で廃仏毀釈を行ったりということになってもしまうわけで。

巡察使が滞在した三カ月の間に、大小合わせて四十を超える神仏の寺社がことごとく破壊された。それらの中には、日本で著名な、きわめて美しい幾つかの寺院が含まれていた。

これはルイス・フロイスの「日本史」にある記述ということですが、
大友宗麟、大村正純とともに天正遣欧少年使節を派遣した有馬晴信が破却した
寺院跡から出土した打ち壊された五輪塔や宝篋印塔の部分を展示で見ますと、
神社仏閣を頼みとし、また畏れてもいた当時のキリシタンでない人たちの動揺は
大変なものであったろうと想像されたりしますですな。


だからといってキリシタン弾圧が是認されることであるはずものないわけながら、
忌避感が長く残る一因にもなったかもしれません。


で、江戸幕府の期間を通じ一貫してキリスト教は禁教となるも、
幕末に開国となって欧米とのやりとりが増え、その中では宣教師の往来も見られるように。
「ヘボン式ローマ字」で有名なジェームス・カーティス・ヘボン
横浜到着は1859年ですから、まだ幕末だったのですよね。


そんな流れで迎える明治ですので、欧化政策が進められる中ではいつしかキリスト教の禁教も
解かれていたのであろう…と勝手に思い込んでしまうところながら、これが違うのですなあ。
明治政府も当初は禁教を継続していたというのですから。


明治になっても「潜伏キリシタン」が発見されると政府は信徒たちに対して
「過酷な拷問を伴う教誨指導を命じた」ことが展示解説にありましたですよ。

こうした対応を取る明治政府に対しては、岩倉使節団が訪ねて周った際、

欧米諸国から問題視され、ようやく明治6年(1873年)になって

キリシタン禁制の高札を撤去して取り敢えずキリスト教を黙認したそうな。


ではありますが、「信教の自由」が明確にされるのは1890年に明治憲法が施行されてから。
まあ、世間の風当たりといった点ではその後もいろいろあったことでしょうけれど。


ところで、先に使った「潜伏キリシタン」という用語ですけれど、
世界遺産登録で目にした言葉ながら、やはりかつては「隠れキリシタン」と言っていたような。
どうやらこれは言葉の使い分けが進んだ結果のようでありますね。


秀吉、家康の時代以降、キリシタン禁制となった結果として、
キリスト教信仰を隠さねばならなくなった信徒たちをます「潜伏キリシタン」と呼ぶ。


そして、この人たちが明治になってキリスト教が黙認されるようになってあと、
いわゆるキリスト教に帰依することにした人々がいる反面、
潜伏期に作り上げてきた先祖伝来の信仰をそのままに受け継ぐ人たちもいたわけで、
後者を「カクレキリシタン」と呼ぶようです。


これがカタカナ書きがなのは学術用語として広く世界でそのままローマ字化して
使われたりするからなのかもしれませんですね。


ま、そんなこんなのことを聞きかじった上で、
航空会社の広告に釣られて天草・島原にも行ってみたいところですが、
何せ世界遺産に登録されたばかりですから新しもの好きの人たちで混んでいるかも。
少しほとぼりが冷めたころに考えるとしますかね…。