先日のNHK「歴史秘話ヒストリア」(といっても一週おくれになってますが)では

「神と仏のゴチャマゼ千年 謎解き!ニッポンの信仰心」と題して

日本人特有の?「神も仏も」の信仰を取り上げておりましたですなあ。


しかしまあ、神仏習合ですとか本地垂迹説とかいう言葉は聞いたことがありましたですが、
ゴチャマゼへの流れの中で、日本の神様は「神様をやめたい」と漏らして仏に加護と求めたとか、
お寺さんの守護神(言い方を変えれば露払いか?)的な立ち位置として

神社はお寺に寄り添ってあったり、もしくは寺社がひとつのものとしてあったりしたのですなあ。


番組で紹介していました鶴岡八幡宮にかつて掛けられていた扁額。
「八幡宮」の文字の下が切り取られた恰好になっており、

元々は「八幡宮寺」と書かれていたそうな。


結局のところ外来である仏教を上にして、そこに古来の神道を

(番組の言葉を借りれば)「いい」加減に混ぜ合わせて

独自の信仰心を育んでいったのが日本人でもあろうかと。

(外来のものをとにかくありがたがるというのも、昔々からの習い性でしょうか…)


ですが、日本人の信仰は何も仏教、神道に限られたものではなくして、
森羅万象への崇拝というのもまた残されていて、なんでもありというか、大らかというか、
そういう漠たる信仰心なのではないかと。

だいたいスピリチュアルなもの自体、漠たるものですし。


今となっては改まって「あなたはどんな宗教を信仰していますか」と日本人に問えば、
確信的に個別の宗教名を答える方もおいでではありましょうが、

多くは仏教徒という意識でもいないし、神道を信仰していると言い切ることもできないことから

無宗教などと答えたりするのではないですかね。


中には、それらしいことは全く信用してないけんねという人もおりましょうけれど、
神社や寺の空気の中に何やら自然のパワーを感じたりすることがあったりもしましょう。


これは神社や寺が(実際にあるかないかは別として)、

人に自然のパワーがありそうだという雰囲気を感じさせるような場所に建っているから

ということも大いに関係はしているわけですが、ともあれ

そこはかとない「感覚」は何かしら人には本能的なものとして備わっているのかもです。

それを宗教に絡むこととして捉えるかどうかは全く別の問題として。


と、こうした思い巡らしの中で思い出されましたのは、
ずいぶん前ですが新聞コラムで見かけた数学者ピーター・フランクルの言葉でして。

・・・今は日本人の宗教観が世界一だと思っている。宗教によって行動、考え方、食事などは束縛されず、自分の都合で宗教をうまく使う。信仰がとても篤い人たちもいるけれど、初詣や合格祈願など、必要と感じた時しか神社やお寺に行かない、葬式の際にしか僧侶に会わないという人が過半数を占める。キリスト教を信仰しなくてもチャペルで結婚式を挙げ、キリスト教系の教育機関に通う。そしてめったに「あなたの宗教は?」と聞かない。日本こそは政教分離と信仰の自由が名実ともにまもられている。

厳格さが求められる宗教の信仰者からみれば「何とゆるい…」ということになりましょうけれど、
宗教は人が生きていくために、人が生み出した道具ではなかろうかとも

個人的には思っておりますので、日本人は一般に使い方が上手と言えないこともないような。


ただそんなふうに考えますと、遊山気分で寺社に詣でるのは勝手ながら、
詣でられる側は「ゆるい」意識でいるわけではないはずですから、戸惑いはありましょうね。
番組でも取り上げられていた「ご朱印集めがブーム!」てなあたり、
寺社ではどんなふうに受け止めているのですかねえ…。