面白そうだと思いつつも、東京オペラシティという場所が場所だけに
どうせ行くなら何かしらの演奏会と聴くのと一緒の機会にしよう…てな目論みでおりましたら、
下手すると終わってしまうかもという時期になってしまい、
取り急ぎと出かけて行った東京オペラシティアートギャラリーでありました。
企画展のタイトルは「五線譜に描いた夢~日本近代音楽の150年」というもの。
日本近代音楽と言いますが、要するに明治になってからの
西洋音楽の受容史を展示したものでありますね。
タイトルの「五線譜に描いた夢」とは、そも五線譜自体が西洋音楽の記譜法ですから、
それを使うことによって日本人はどのような夢を描いてきたのか…ということでありましょう。
それにしても、日本近代音楽の創出=明治と考えると150年になるのか…
なんつうふうに思ってしまったのでして、
明治100年と言われてから感覚的にもう50年も経ってるの?という印象。
ま、冷静に考えれば、明治維新が1868年、明治100年と言われたのが1968年、
で今年が2013年…、だいたい150年になりましょうかね(光陰矢の如しでありますなぁ…)。
と、余談はともかくですが、展示の構成は
①幕末から明治、②大正、③昭和・戦前、④戦後から21世紀という四部構成。
時代を経るに従って、クラシカルな音楽の延長線上では
(世界でも日本でも)いろいろな実験(的作品の発表)が行われたりするようになりますけれど、
こうした辺りはかなり聴き手を置き去りにした感(個人的には完全に置き去られてます)が
あるように思うところでもあり、「歴史的」という意味でも比較的最初の方の展示に
興味津々でありましたですね。
西洋からの知識、それは本当に「知」であるかどうかというだけでなく、
単に珍しいということが理由でもあったろうと思いますが、
幕末ともなるとそうしたものが書物の形でざくざく入ってきていたのではないですかね。
それを翻訳して(どうだ、珍しいだろうと)紹介することも多々行われたものを思いますが、
西洋音楽に関して「大西楽律考」という書物があったのだそうで、展示されてました。
残された写本の書写年は未詳ながら、
この本に携わった宇田川榕菴という人の没年が1846年とすれば明らかに明治以前ですので、
西洋音楽の楽器や楽理に関する日本で最初の書物ということになるようです。
こうした書物などを通じて、(他の様々なものと同様に)西洋には
日本とは異なる音楽があるという知識は得られたでしょうけれど、
何せ音楽だけに聴いてみないとどんな?とは曰く言い難いのではなかったかと。
もしかすると、長崎などでは
もそっと古くから何かしら(チャルメラとか?)が奏でられていたかもですが、
やはり強いインパクトを与えたのは黒船来航で、船が来たこと自体、強烈で
人々は「怖い、でも見たい」で思ったところへ、欧米では当然の備えでしょうか、
ペリーは26名の軍楽隊と6名の少年鼓笛隊を連れてきていたのだとか。
そして、上陸したペリー一行は「ヤンキー・ドゥードゥル」を打ち鳴らす軍楽隊を先頭に
テンポを揃えて行進してきたとなれば、それまでに聴いたことのない音色、大きな音量には
「怖い、でも見たい聴きたい」と人々は隠れて耳を欹てていたかも。
行進の様子は絵図にも残されています。
こうした迎えた明治期にはご存じのとおりの欧化政策がとられたわけでして、
その象徴たる鹿鳴館は1883年に完成し。夜毎にワルツやらなんやら西洋の舞踏曲が
演奏されることになったものと思います。
鹿鳴館の演奏まで手掛けたかどうかは分かりませんけれど、
鹿鳴館完成に先んじて、日本の伝統音楽の総本山のような雅楽寮には
外交上、西洋音楽の演奏ができないでは済まされぬと洋楽を学ぶよう指令が出されるのですね。
1874以来、西洋楽器のテクニックの習得に努め、実際に演奏を披露もしたようです。
1876年11月3日の天長節(今では文化の日になってる)に際してのプログラムが残されていて、
表記の仕方に時代を感じるところですけれど、「グランドマルチ」とか「ビウチーフルフロウル」とか
「クイキマルチ」とかいう曲を演奏したのだとか。
ところで西洋音楽受容として楽隊の方は要するに器楽ですけれど、
いわゆる歌モノの方はどうであったかと言えば、
幕末維新期に次々と来日した宣教師のもたらした讃美歌が事始めになるようです。
当時歌われたものとして、今では「むすんでひらいて」という童謡として知られる曲も
元は讃美歌なんだそうでありますよ(「むすんでひらいて」が讃美歌だとは知りませんでした)。
先ごろ最終回を終えた大河ドラマ「八重の桜」にも同志社英学校で
讃美歌が歌われているシーンがあったですが、ちょうど今年2013年が創立150周年という
明治学院大学(1863年、横浜に出来た英学塾が始まり)の創設者、J.C.ヘボンらも
当然に英語の修得と同時にキリスト教精神の涵養のため(たぶん…)、
讃美歌を歌わせていたようす。
ちなみにこのヘボン先生は「和英語林集成」という大部の辞書を編纂しましたけれど、
そこで日本語の音を表すために使った表記が広く知られる「ヘボン式ローマ字」。
ですが今の感覚からすると、ヘボン式ではこういうふうに書くのかと思うものも出ておりまして、
例えば「笛」には「FUYE」と当てられている。「ふぇ~」でありましたですよ(笑)。
ところで、こうした流れの中で西洋の音楽を取り入れはするけれど、
日本独特の音楽もあるわけで、「東西二洋ノ音楽ヲ折衷」して「国楽創成」を図るべき
という動きが出てくるという。
これは日本の伝統音楽を徒に排斥するものではないながら、
「邦楽改良」もまた行われるべきとして、
邦楽の楽譜も五線譜化することが目指されたのだそうです。
五線譜は、平均律の記譜には何の問題もないものと思いますけれど、
日本の音楽は平均律に根ざしているわけではないでしょうから
さぞかし大変なことではなかったろうかと想像しますですね。
それだけに日本人の心性に馴染む歌謡、音曲を五線譜上で創作していくことも、
初期段階では相当に苦労があったであろうと。
ですから、明治政府が国歌の必要性を意識したときに(といっても、外国人に進言されたそう)、
歌詞は「古今和歌集」から採ることにしたものの、(経緯は端折りますが)曲の方は3種類あって、
先に出来ていた外国人の手になる2種類のメロディーは日本語の乗り具合が
日本人にとって違和感を抱くふうでもあり、結局1種だけが残ったと言います。
こうした難儀を乗り越えて、
五線譜上のメロディーに日本語をうまく乗せることがだんだんできるようになり、
国側の発想によって「唱歌」が生みだされ、また唱歌には国策の反映臭さがあるという反動から、
子供らしい歌を目指して「童謡」が作られたりと、日本人の間に五線譜が広まっていった…。
って、好きなよう書いておりましたら、
ちっとも昭和や戦後、ましてや21世紀などに到達しないのにかくも長くなってしまいました。
まあ、それだけいろいろと興味深い内容の企画展であったと思っていただければと。
巡回したらご覧くださいねと言いたいところながら、巡回しそうもないようで…。