善長寺
を後にそのまま城沼北岸をレンタサイクルで快調に飛ばす…ですが、
道々そこらじゅうにすだくごく小さな虫には少々悩まされましたですね。
下手すると口にも飛び込んでくるかという状況でしたので、
後に駅前に戻ったときに出くわした観光案内所の人に聞いてみましたが「?」でした…。
それはともかく、東西に細長い城沼のほぼ東端のあたり、
終南山見松院善導寺に到着と相成りました。
ここは先の善長寺のところでも少々触れた徳川四天王のひとり、榊原康政の菩提寺であります。
てなことを言いますと、さも榊原康政がどういう武将であったかをよく知っているかのようですけれど、
実は徳川家家臣として十把ひとからげにして名前だけは知っているてなところ。
少々不思議に思いますのは、豊臣秀吉子飼いの武将たちは加藤清正 であれ、
福島正則 であれ、よく知られているわけですけれど、これは秀吉が天下人となって、
加藤、福島それぞれに熊本 や広島 で大身に取り立てられたからとするならば、
天下の形勢が移り変わって徳川家康 の天下となった後に、
その子飼いである武将たちが秀吉の家臣ほどに知られていないあたり。
徳川は、一度は豊臣の下風に置かれはしたものの、これはドン・ヴィトー・コルレオーネの下に
数々の親分さんたちがいたとはいえ、彼らはドン・ヴィトーの子分ではなかったのと同様に、
決して秀吉の子分ではない。
となれば、秀吉にとっての福島、加藤と徳川にとっての榊原、本多、井伊といった面々は
同列ではないかと、改めて思うのですけれど…と言いつつ、自らもよく知らないところを補うべく
館林に出かけるにあたっては一冊、本を読んで行ったのでありまして。
(直接的に榊原康政ひとりを扱ったのは、これしかなかったような)
でもって、知ることになったのは榊原康政という人はどちらかというと武辺者であったような。
ですから、家康を戴いて天下に駆け上るにあたっては大活躍、
だからこそ徳川が関東に移った際には、北辺警備の含みもあって、
館林十万石を与えられたのでありましょう。
ですが、いよいよ徳川の天下が定まってくると、自ずと軍事面での出番は無くなる反面、
権謀術策を尽くす怪しげな政治(榊原から見てですが)が主体となって、
重用されるのも徳川四天王よりもその方面に長けた本多正信・正純親子だったりするという。
両者は当然に反目するわけですが、この辺り、あたかも秀吉の下での
加藤・福島らの武辺者対石田三成
を筆頭とする奉行衆てな構図と似ているではありませんか。
ただ、家康は康政の忠義を忘れたわけではありませんで(元々、康政の「康」は家康から一字贈られた)、
康政を老中にするも、本人に政治向きのことは興味が無く、
また水戸を領する二十数万石を与えようとするも、お江戸がいざ一大事の際、
水戸では駆けつけるのに遠すぎるから館林で結構と断ってしまったり、
どうも忠義と頑固が同居していたようですなあ。
と、江戸表での駆け引きめいた政治には興味を示さなかった康政ですけれど、
領国経営では大きな手腕を発揮したようすでありますね。
館林にとって大きなことは、利根川
・渡良瀬川
の築堤工事でしょうか。
古来、両河川に挟まれた土地である館林は、
洪水などにはたびたび悩まされており、沼や湿地の多かったそうな。
城沼もその名残でありましょう。
これが康政主導による築堤工事が行われたことにより、土地の改良が進んだ…
となると、小麦やそれに類する産品で館林の地場産業が育成される元を
榊原康政が作り上げたのかもしれませんですね。
そうしたことがあったからなのか、
善導寺本堂裏手にある榊原康政の墓所は実に立派なものでありましたですよ。
左側でひときわ大きく聳えるのが、康政のお墓です。
ところが、東武鉄道館林駅東口の駅前広場の方にもかようなものが。
「榊原康政の墓跡」(右端)とあります。
なんでも康政の墓は言うに及ばず善導寺自体が元々は駅前に立地していたのだとか。
それが「館林市都市整備事業」に伴って、城沼の彼方へ移転することになった。
地元のある人(差し障りがあるといけませんので、どこの誰かは言いませんが)曰く、
地方都市によくあるように、駅前に商業施設を誘致して活性化を図ろうとしたところが
当の施設は撤退し、今は広い駐車場になってますよ…と。
なんだか移転させられた康政も浮かばれない気がしないではないですが、
移転先での善導寺、本堂裏には庭園もあり、のんびり過ごしたい気にもさせられる
いいお寺さんになっているような。
結果的には移転してよかったのかも…と思いかけましたけれど、
こちらはこちらですぐ隣に郊外型大規模店舗が展開しているようす。
地方都市の現状をも垣間見る善導寺詣でとなったのでありました。