「THE 琳派」展 を開催中の畠山記念館、ここへの最寄り駅は

都営地下鉄の高輪台駅、もしくは都営地下鉄三田線・東京メトロの白金台駅なのですけれど、

駅と記念館を単純に往復するのでは詰まらんなぁと(毎度のことながら)思ったものですから、

JR品川駅から歩き出して途中寄り道と目論んだのでありますよ。


品川駅を山手線の内側(西側)に出ると、品川と言いつつ実は品川区ではなくして

港区高輪なのでありますが(だいたいからして、品川駅が港区にありますね)、

第一京浜を横断して目の前の緩い坂を上っていきました。


この坂が柘榴坂でありまして、

映画にもなった「柘榴坂の仇討」の仇討シーンの舞台ということになってますね。


これを上りつめて、左へ。

一気に車通りが少なくなる住宅地へと踏み入ってほどなく、物流博物館に到着。

まずはこちらに寄り道しようと思っておったわけでありまして。


物流博物館@港区高輪


先に鯰料理 を食しに出かけた埼玉県吉川市は江戸川と中川に挟まれた土地柄、

江戸期には舟運の河岸が築かれて大いに栄えた…とありましたものですから、

(今はすっかり落ち着いてしまっている分、北ドイツのメルン のようですが)

そんな舟運のことあたりも何か分かるかなという思惑であったわけです。


もちろん博物館の名称からして物流全般に渡る展示がありましたですが、

詳しく解説されているのは江戸期以降、戦乱の世が落ち着いて、物流も増えたということでしょうか。

そして、入って早々のところには、こんな模型が。


牛車模型@物流博物館


荷を運ぶ牛車の模型ですけれど、

ご覧のようにレールのような敷石が見て取れますですね。


物を運ぶに当たっては、

現在のトラックの代わりに牛車や馬車を使ったと想像するのは容易なことながら、

どこでも勝手に走らせていいわけではなかったそうな。


模型のような敷石がされた場所でだけ使えて、それがない普通の街道筋では乗り入れ禁止。

まあ、舗装路でない時代に重い荷を積んで行き交う車が多いと、

路面が轍でえぐれてしまうからでありましょう。


ですので、街道筋をたどって物流の一端を担ったのが飛脚でありますね。

なんでも飛脚には3種類あったそうで、継飛脚(専ら幕府公用)、大名飛脚(各大名家専属)、

そして誰でも利用できる町飛脚ということであります。


以前、東海道由比宿 で紀州徳川家の大名飛脚(七里飛脚)の役所跡というのを見ましたが、

遠距離輸送ではひとりの飛脚が走り通すわけでなく、リレー方式で行ったわけですね。

荷駄(車は使わないにしても)なんかもやっぱり途中で草臥れてしまいしょうから、替えが必要。

そこで、各宿場には問屋場(といやば)というのが設けられていたといいます。


問屋場のジオラマ@物流博物館


ここで荷を積みかえて馬や人足が交代することになりますので、

常時人馬を用意しておくのは問屋場の義務でもあったそうな。

また一般の旅行者のためには旅籠の紹介もしていたといいますけれど、

広重 の絵をみたりすると、問屋場での紹介以前に客引きが賑々しかったようにも思われますね。


ところで荷運びの代金ですけれど、これもしっかり幕府お定めの料金が決まっていたようです。

しかしながら、誰でも使える町飛脚にはお定めの2倍額という設定があったそうですから、

誰にも使いやすいものではない。ましてや大量の荷物が運べるわけでもありませんし。


菱垣廻船模型@物流博物館

そこで、物流本来のイメージに近い大量輸送を担ったのが舟運ということに。

太平洋側の東廻り航路、日本海側の西廻り航路、それぞれに海上輸送が展開された一方で、

河川を利用した舟運も大きく栄えたということのなのですね。


近世関東の主な河岸@物流博物館


例えば東北から江戸に荷を運ぶ際、太平洋岸を南下して銚子までくると、

房総半島を迂回するのでなく利根川に入って川伝いに、

そして途中では河川どうしをつなぐ運河を抜けたりもして江戸に到達したという。


ちなみに上の関東地方の地図は当時の河川を表して、

さらに川に沿って点々とマークされている場所に「河岸」というものがあったことを示しています。


河岸と聞いて、単に舟が寄せられるだけのようにも思ってましたが、

舟運の中継点であって、陸路の宿場代わり、問屋場代わりということであれば、

そりゃあ賑わいもあったことでしょう。先の吉川もそういう場所だったのですなあ。


こうした辺りが江戸期の物流の正規ルートなわけですけれど、

いつの時代も抜け道を探ることを考える人たちがいるもので。


もっとも町飛脚のように誰でも使えると言いながら、

規定料金の2倍かかるとなれば使い勝手は悪いでしょうから、

何とか安く運べる手段はないものかと考えるのもやむなきことかと。


そうしたものに、街道を通らず裏道を抜けて荷駄を通わす

「中馬」(ちゅうま)と呼ばれる方法があったのだそうです。


中馬模型@物流博物館

信州の山間部で始まった「信州中馬」などが典型のようでして、

街道を通らず宿場を使わない(つまり一頭の馬で運びきる)ことからあまり長距離は無理ながら、

それでも西は名古屋から東は上州倉賀野までをカバーしていて、

倉賀野からは利根川水系の舟運につなげば江戸にまで運ぶことができるのですね。


料金の安さが人気を呼んで、流行るにつれて

幕府としても目こぼしならんと考えたものの、やがては公認するに至る。

それだけ江戸が大きな消費都市になっていて、どんどん物が必要な状態になっていたのでしょう。


…というところまで来て、展示は当然に明治以降、物流の近代化の部分もありましたですが、

すっかり長くなってしまいましたので、この話は「つづく」ということで、ご容赦くださいまし。