被爆建物 を見て、広島市現代美術館 に寄り、そしてもうひとつ。
この辺りになりますと、出張の合間とも思えなくなってきますですが、
万障をうまく繰り合わせられた結果、広島城を見てきたのでありました。


もっとも広島で立ち寄るべきは何より
原爆ドームであり、平和記念資料館であろうかとも思うところですけれど、
去年(ちょうど旧ブログをお終いいして、こちらのブログを始めるまでの間に)
広島を訪ねておりまして、それこそ原爆ドームにも平和記念資料館にも
そして宮島にも行ったばかりとも言えるのでして。


で、実のところは広島城も下から見上げるところまでは行っておきながら、
(老齢の父母ともどもの)同行者一同くたくたで、天守閣内に入るのを断念。
その無念をこのほど見事に晴らした…とまあ、そういう次第でありますよ。


この4月に訪ねた駿府城 もそうですけれど、多くのお城は
(戦国期の山城はともかく、江戸期の藩政の中心としての平城の多くは)
今ではすっかり○○城公園とか△△城址公園とか言う広場的な、公園のような
使われ方をしている中に、後から再建されたり修復されたりした部分部分が
かつてお城だったことを物語るようになってますですね。

広島城天守閣が見えて来た


広島城も同様で、木立の中を進んでいくと復元された天守閣が見えてきます。
別名・鯉城(りじょう)と呼ばれて、その云われにはいくつか説があるようですが、
一説には天守が黒い(真鯉色ということか?)ことを理由としているとか。
(広島カープはやはりここから来てるんですかね…)

確かに遠目でも黒いなと思うものの、近くで見ると焦がしたっぽいですよね。

広島城天守閣


と、前回は入らずに立ち去った入口から天守閣の中へと進みますと、
そこは資料館になっているのでありました。
てっきり最上階からの展望のために登るのかと思ってたですが、
登ってみればさほどに良い眺めとも言えませんですかね、今となっては。


広島城天守閣より見下ろす


そこで改めてつらつらと展示を見て行きますと、
広島は必ずしも古い町ではないのだなということが分かってきました。


今でも町中は幾筋のも川が流れ、橋がそこここに架かっているのが見てとれますけれど、
主流である太田川の河口域に土砂が堆積してできたデルタ地帯なわけですね、もともと。


長らく中国山地に入り込んだ山城である吉田郡山城に拠っていた毛利氏は、
当主の輝元が天正16年(1588年)、豊臣秀吉の築いた大阪城とその城下の繁栄を見て、
山に籠ってはおられんと思ったか、翌年には早速に海に近い三角州に
平城を

築城にかかったとか(築城の頃になって、ようやく辺りを「広島」と呼ぶようになったらしいです)。


海に近い三角州に城を建てるのは楽な作業ではなかったろうと想像しますが、
やはり町人、商人に賑わいは町の、領国の豊かさにも通ずるところでしょうから、
海に近いのは舟運のためでもありましょうし、そもそも広島はかなり山がちで
平坦な場所が少ないとも言えましょうかね。


とまれ、天正19年(1591年)には毛利輝元が晴れて広島城に入城するも束の間、
9年後には関ヶ原で西軍総大将に担ぎあげられていた毛利は、
中国の覇者から防長二国の領主に押し込められてしまい、

(毛利といえば長州を思い出すのは、ここからでしょうね)
代わりに芸備49万石余を領して福島正則が入ってくるという。


ちなみに「黒田節(黒田武士)」という民謡がありますけれど、
♪酒は呑め呑め呑むならば 日の本一のこの槍を呑み取るほどに呑むならば~って、
あれですが、この大杯についだ酒を呑み干せるかどうかに天下の名槍を賭けて、
呑み取られてしまったのが広島時代の福島正則でありますね。


では、呑み取った方はというと、黒田武士というだけあって、
黒田家(当時は黒田官兵衛の子が長じて黒田長政となり、福岡藩主の時代)の家臣、
母里太兵衛(もりたへえ)であったと言いますから、NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」では
速水もこみちの役どころとなりますか。ふ~んでありますね。


とまれ、福島正則は賤ヶ岳の七本槍に数えられる豊臣恩顧の大名ですから、
城の修繕に託けたいちゃもんめいたことでほどなく改易され、1619年に浅野長晟が入って、
明治まで長く浅野家が広島藩主を継いでいくという。


またちなみにですが、「忠臣蔵」で有名な播州赤穂藩主・浅野長矩は
この広島藩浅野家と親戚筋であります。


とまあ、余談ばかりのような気もしますですが、
このようなことが諸々、資料館の展示で分かるということなわけでありますよ。
ところで天守閣以外でお城らしい部分はといえば、二の丸でありましょう。

広島城二の丸

こちらに関しては、ちと長いですが解説板から説明を抜き出してみるとします。

この石垣と建物に囲まれた二の丸は馬出しの機能を持つ郭(くるわ)で、全国の近世城郭の中では特異な配置であり、広島城の特徴とされています。
この郭は、毛利時代(16世紀末)に築造されたもので、外側から内部が見えにくく、本丸からは内部が見える構造としており、防御機能を考慮したことがうかがえます。郭内には、表御門、太鼓櫓など近世初期の建物が残っていましたが、原爆により倒壊、焼失しました。現在の建物は、築城400年を契機に、江戸時代の姿に復元整備したものです。

上の写真、左側の石段を登っていきますと、こちらも中に(無料で)入れます。
復元整備にあたって、昔の技法を用いながらの作業の様子が

パネル展示されていたものですから、
改めて天井を見上げたり、端々に目をやったりしてみたのですね。


そして、こうしたものを造った昔の人の技術は大したものだなぁと思ったりしながら、
広島城を後にしたのでありました。