思いがけずも頼山陽がらみ、原爆がらみの史跡 に足を止めてしまったものですから、

ちと後回しになってしまいましたですが、改めて広島市現代美術館を訪ねたというお話、

開催中の展覧会は「スリーピング・ビューティー」展でありました。


「スリーピング・ビューティー」展@広島市現代美術館


まずもってそもそもの誤解であったのですけれど、

「スリーピング・ビューティー」との展覧会タイトルの意を

「眠れる美」なるものを如何にかして具現化した作品の展示かと思っていたところ、実は…。

美術館の解説によりますと、こんなふうになります。

テーマやコンセプトが重視され、「美」の要素が作品の深層に潜むことの多い現代美術において、「美」はいかにして知覚され得るのでしょうか。…さまざまな表現のうちにある「眠れる美」はあなたとの出会いによる目覚めを待っているのです。

「美」の要素は作品の深層に潜んでいる、

だから、そうした眠れる美を見出してみようではないか…ということは、

つまり見る側の人それぞれの見方で見りゃあいいんだねということであって、

俄然、自由に見て回ろうということに(考えてみれば、いつもそうしてはいますけれど)。


ただ、そうなると基本的に「美」と受け止めるかどうかは

これまでの人生で(とは大げさですが)培われた(逆に言えば限定化された)ものの

範疇に収まっているかどうかという尺度で見ることになりがち。


ですから当然にこれから触れる作品も、極めて主観的な印象の結果でありますが、

まずもって意外な選択のようですけれど、映像作品を挙げておこうかと。


コンテンポラリー作品の展示となると、

必ずといっていいほど含まれているのが映像作品ですけれど、

実のところ、作者の意図はともあれ「う~む」と感心するものに出会う機会が少なかっただけに

印象的だったと言いましょうか。


アンジュ・レッチア作の「海」という作品でして、

「Ange Leccia la mer」でキーワード検索しますとYoutubeで見られますので、

はてご覧になった方の印象は?と思うところですけれど、

個人的には、釘付け状態でありましたですね。


アンジュ・レッチア「海」(部分)(本展フライヤーより)


繰り返し繰り返し押し寄せる波…これを真上から見下ろす形の定点から

ひたすらじいっと眺めているというもの。


波にはもちろん上下動もありますけれど、砂浜に打ち寄せる波というのは

(知覚できる限りで)寄せては返すという平面的な奥行き感で受け止めてましたけれど、

これは視覚的に全くの上下運動に転換されているわけですね。


折れ線グラフのようと言ってもいいかと思いますが、

例えばオシロスコープのような機械に映し出される波形の類いは

実に実に人工的なものとしてのイメージがあったのに対して、

この現れ方というか、人間が考えた表し方は遥か昔から自然に行われていたものじゃんと。


人がそれに気付く(それを応用する)のは、悠久の時から考えれば極めて最近なのだろうね…

てなことを思いつつ、一方で(波音のCDなどもあるように)波のもたらすヒーリング効果にも

浸っていた…そんな気がしたものでありますよ。


この作品から歩を進めてほどなく、

今度はアグネス・マーティンの「無題#13」に出くわしました。


アグネス・マーティン「無題#13」(部分)(本展フライヤーより)

単純に、極めて単純な印象としてきれいだな、「美」だなと思うところは

もはや(個人的印象では)「眠れる美」というより「起きてる美」ではないかと。


ラフな仕上げ(手の痕跡やらがあるらしいですが、それは判りませんでした)が、

ひと肌を感じさせますし、無機質な冷たさは排除しつつ、淡い色合いは涼やかでさえあるという。


ジャスパー・ジョーンズの星条旗を描いたシリーズの中に

こうした淡い色彩を塗り込めたものがあったことを思い出しましたですが、

見てくれが似たふうであっても、こちらは(おそらく)思想性(政治性)は無く、

それだけに「無垢」さを感じるところでありますね。


あんまり長くなっても何ですので、触れるのはもうひとつだけ。

田口和奈による一連の写真作品(?)です。


田口和奈「窮迫の、深みの」(部分)・(本展フライヤーより)

この(フライヤーから借りてきた)「窮迫の、深みの」という作品からして、

見るからに「写真」と思うところではないかと。


確かに表面上は偽りなき写真ながら、制作過程に隠し味がありましてですね、

まず対象を写真に撮り、その写真をモンタージュしてキャンバスに描き、

その描いたキャンバスを写真に撮る…というプロセスで出来上がっているという。


写真という芸術、絵画という芸術、そのどちらでもあるようでどちらでもない。

写真の神髄はリアリティーにあるてなふうに思っていると、

とんでもない思い違いに沈むことになりかねないですね。


作風の違いはあるものの、

植田正治 (ちょうどホテルで見た日曜美術館でやってましたが)の思いとも繋がるかもです。

ただ、田口作品はそのプロセスを知らずに見ても、不思議な奥行き感があって、

これまた見入ってしまうところでありますよ。


という具合に、(出張であったことの間隙を巧みに突いて?)出向いただけのことはあったと

思う展覧会だったわけですが、帰りがけにミュージアム・ショップに立ち寄ってみますと、

何とカッサンドル 「北方急行」のポストカードが置いてあるではありませんか!


即購入したですが、この一事をもっても

「来た甲斐」感が弥増す広島市現代美術館なのでありました。


広島市現代美術館