魔人の記 -5ページ目

ring.68 選択

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~第3部~


背の高い草が、風に揺れている。
彼らはあたり一面に生えて、互いにふれ合う音をかすかに響かせている。

それはとても静かな、心安らぐ風景だった。

”最後の選択だ”

どこからともなく、誰かの声がする。
草同士がふれ合う音とは似ても似つかない、無遠慮で傲慢な男の声だった。

姿は見えない。
見えない男が、中空から問いかけてくる。

”お前は止まるのか? それとも進むのか?”

そして返答を待たず、補足の言葉を付け加える。

”お前はそこに立ち止まっていられる。ただ静かに、ずっとそうしていられる。誰かがお前を悩ませることはなく、お前自身の悩みすらも消える。穏やかな時間が永遠に続く”

男が言い終わると、それを待っていたかのようにさわさわという音が聞こえてきた。
風に吹かれた草たちが、遠近の別なくふれ合っている。

その音が止むと、男はもうひとつの選択についてこう補足した。

”お前はそこから自らを進められる。圧倒的な自由を手にできる。誰かがお前を悩ませ、またお前自身の悩みもお前を切り裂く。見たくもない事実、知りたくもない真実に焼かれ続ける”

止まれば平穏、進めば波乱。
傲慢な男の声はそう告げている。

どちらを選ぶべきかについては、全く触れない。
男はただ選択肢を明示し、それぞれの選択がどういった結果をもたらすのか補足しただけだった。

空は晴れ、爽やかな青と白が天を満たす。
吹く風は穏やかで、背の高い草同士がふれ合う音も心地よい。

平和で穏やかな時間と空間だけがあり、それ以外には何もない。
安心かつ安全、誰からも不快なことをされず、自分がしてしまう心配もなかった。

”これは、取り返しのつかない選択だ”

男が言う。

”お前は必ずどちらか片方を選ばなければならない。止まったまま進むことはできないし、許されない。そして今のお前は『止まった状態』…”

ここで男の言葉が途切れる。
かと思うと、地面から同じ声が聞こえてきた。

”進めばどうなるのか? それを知らなければ、公平な判断はできまい。だからお前にはこれから『3歩だけ進んでもらう』。その上で選択するのだ”

声が止むと同時に、視界が60センチほど前へ動く。
途端に空が暗くなり雨が降り始めた。

どうやら60センチほどの前進が『1歩』にあたるようだ。
その変化はあまりに唐突で激しい。

視界はさらに60センチ進む。
2歩目である。

この時には、今まで穏やかだった風が身を切る寒さとなって吹きすさんだ。
暗さと雨に寒風までも加わった形である。

そして3歩目には、あたり一面に生えていた草が消え失せた。
残ったのは、暗く冷たく寂しい道だけだった。

だが道の先には、これまで知ることのなかった変化がある。
遠くに石造りの洋館が見えた。

”さあ、決めるのだ”

中空と地面、両方から男の声が聞こえる。

”止まるのか進むのか、『お前』が決めるのだ”

決断の時である。
そして選択はなされた。

選んだのは──


(…ここは…?)

正文は目を覚ます。
最初に見えたのは暗い空だった。

空のはずだった。
しかしよく見るとそうではない。

(天井?)

彼は体を起こし、それを凝視する。
そこまでして初めて、目覚めて最初に見たものが何であるかわかった。

それは天に向かって湾曲した天井だったのである。

(なんだこれ…)

天井といえば平面的で、照明器具が取りつけられているものという思い込みがあった。
そのため、正文は認識を誤ったのだ。

つまりどういうことかというと、天井はドーム型であり照明器具がない。
ないにも関わらず、彼がいる部屋には十分な明かりがあった。

「…お目覚めかね」

男の声が聞こえた。
正文はハッとした表情でそちらを向く。

(さっきの声!)

無遠慮で傲慢な男の声、それと全く同じものだったのだ。
振り向いたことで、声の主と部屋の様子が正文の目に映る。

男は玉座で頬杖をついていた。
玉座は背もたれと座面が真紅で、他が金色という豪奢なものである。

一般市民がこの玉座に座れば、見る者にちぐはぐな印象を与えることだろう。
しかし男が玉座に座っている姿はむしろ自然であり、正文の心に風格という言葉すら連想させた。

ただ男が着ているものはやけに現代的で、玉座とは世界観がズレている。
特に黒いロングコートは、玉座に合う服装とは言いがたかった。

また、正文が今いる場所は巨大な球体状の部屋で、かつその内側だった。
ドーム型に見えた天井は、球体の上部だった。

部屋の天頂部から7割ほど下がった高さに、正文のいる床がある。
床の中央部から前方に5メートルほど進んだ先には大階段がそびえ、その先に男が座る玉座があった。

「お前は、進むことを選んだ」

男が静かに正文へ告げる。
大階段の高さに加え5メートル以上もの距離があるにも関わらず、すぐそばで話しているかのようにはっきりと聞こえる。

「だからこそ目覚めた…自ら苦悶の人生を選んだというわけだ」

「……」

正文はすぐには返答できない。
現状に驚愕し、男の威容に圧倒されていたためだ。

だが何度かの呼吸を経て、彼は自分の言葉を見つける。
それを口から吐き出した。

「苦悶の人生、なんて…言ってなかったと思うけど」

「ほう?」

正文の言葉に、男は満足げに笑う。

「冷静だな。取り乱すものかと思ったが」

「…おかげさまで……めちゃくちゃな状況にも、ぼちぼち慣れてきた…のかも」

「ハハッ、それは喜ばしいことだ」

男は頬杖をやめ、正文に拍手を送る。
だがその動きは見るからに白々しい。

拍手を終えると、男は再び頬杖をついた。

「進むという選択をしたお前に敬意を表して、私を『プロフェッサー』と呼ぶことを許そう」

「プロ…フェッサー?」

「『教授』という意味だよ。学問を研究し、後進に教えもする者のことだ。わかりやすい例を出すなら、大学の先生といったところか」

「言葉自体の意味くらいは知って…」

正文は反論しようとしたが、その口が止まる。
教授という言葉が、彼に黒いロングコートの正体を教えたのだ。

(あれ…元は白衣か!)

プロフェッサーと名乗った男が身につけているのは、医療用の白衣を黒く染めたものだった。

「もっとも、私が研究しているものに対応する学問は、この世界に存在しないがね」

プロフェッサーが玉座から立ち上がる。
大階段に近づくと、悠然とした足取りで下り始めた。

「…!」

正文は相手の接近に気づいて身構える。
プロフェッサーはそれを見て苦笑した。

「まさか、この私と戦うつもりかね?」

「…場合によっては」

「それはどんな場合なのか、教えてもらってもいいかな?」

「……どんな場合…?」

正文は返答に困る。
プロフェッサーが何を考えているのか、どうにもわからないのだ。

(話せばわかるタイプ…だとは思う。でもなんだ? 何か……単に強いとかそういうんじゃない、何かとんでもない感じがする…)

とはいえ、このまま返答せずにいるというのも気持ちが悪い。
正文は言葉を絞り出した。

「えっと…俺を殺そうとするとか、弱い人をいじめるとか…」

「お前は殺しても死なないのではないのか?」

「なんでそれを」

「メギらと同じになったのだからな」

「…!」

プロフェッサーはメギの名前を知っている。
メギたちが殺されても死なないことを知っている。

正文の胸は激しくざわめいた。

「あんた…まさか!」

「まさか、何かね? お前がつかんだ答えを教えてくれ」

「キルメーカーの関係者…!?」

「フフフッ」

軽い笑いとともに、プロフェッサーは大階段を下りきる。
直後、胸を反らせて大笑いし始めた。

「ハハハハハハッ! 関係者ときたか! あの玉座を見て、そこに座る私を見たというのに、ずいぶんとひかえめなことだ!」

「えっ…?」

「まあいい」

プロフェッサーは大笑いをやめると、部屋の壁に目をやる。
すると壁に動画らしきものが現れた。

壁にモニターが取りつけられていて、そこに映像が映し出されたというわけではない。
壁そのものの表面、その一部が映像に変わったのである。

映像は、軍服を着た男たちが銃火器を持って通路を進んでいるというものだった。
軍服も銃火器も、明らかに他国のものである。

プロフェッサーは画像を指差し、これから起こることを正文に告げた。

「もうすぐここに奴らが来る」

「あれって、外国の軍人…?」

「お前は玉座の後ろに隠れているといい。私が何者かわかるだろう」

プロフェッサーはそう言うと、指差しをやめて正文のすぐ横を通り過ぎた。
正文は言葉の意味がわからずに、ただ振り向いて相手の背中を見つめるばかりだった。


→ring.69へ続く

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第2部登場人物と独自用語

◯第2部(ring.32~ring.67)登場人物

 ・田井兄弟(たいきょうだい):一坂郡北部の兄弟アンチェインド。兄が譲(ゆずる)で弟が守(まもる)。マルチ商法で多額の損失を出し、一坂送りにされた。アンチェインドとして生き延びていたが、『チグサレ』に食われる。

 ・『チグサレ』:正文のこと。特に血鎖(ちぐさり)の蛇を従えている時に彼はこの名前を使う。アンチェインドを襲い、彼らの血肉と恨みのエネルギーを蛇たちに食わせるための形態ともいえる。非常に好戦的な性格になるが、それは演技である。

 ・小窪公園の巨木(こくぼこうえんのきょぼく):正文が幼い頃に住んでいたアパートから5分ほどの距離にある、小窪公園に生える巨木。彼が『人間としての死』を食い尽くす直前に降ってきた葉と同じ葉を持つ。


 ・御堂 雫(みどう しずく):元女優。28歳。若手の中では実力派と言われていたが、11股逆寝取りという大スキャンダルが発覚し引退に追い込まれる。下野 幸三にさらわれ、封鎖区画『グランタワー・ウーノ・ペンディオ』に囚われる。

 ・下野 幸三(しもの こうぞう):一坂郡西部のアンチェインドで、元催眠術師。御堂が一坂に送られてきたことを知ると、彼女をさらって封鎖区画に逃げ込んだ。キルメーカー運営と敵対し、追手のアンチェインドやエージェントを特別な催眠術で手下にする。

 ・グランタワー・ウーノ・ペンディオ:一坂郡西部に建てられた超高級タワーマンション。48階建て。ウーノは『1』、ペンディオは『坂』を意味する。あまりに広すぎるためキルメーカーの舞台には向かないとして、敷地全体が封鎖区画に指定されている。


 ・白く光る少年(しろくひかるしょうねん):『グランタワー・ウーノ・ペンディオ』の40階を過ぎた外壁から突如として現れた少年。重力を無視でき、地面ではなく外壁を足場として立つ。

 ・白猫(しろねこ):全身が白い体毛で覆われた猫。ねこぱんちで正文を叩き起こす。『グランタワー・ウーノ・ペンディオ』1階のコンシェルジュカウンター前にいる。どうやってエントランスの自動ドアを抜けたのかは不明。

 ・先に派遣されたアンチェインド(さきにはけんされたあんちぇいんど):キルメーカー運営から下野を始末するために送り込まれた殺し屋。下野の特別な催眠術にやられてしまったらしく、彼の手下として正文の前に立ちはだかる。


 ・甲03(こうぜろすりー):キルメーカー運営のエージェント。服装はCF21やα7と同様に上下黒のスーツ。アンチェインドと同じく下野打倒のために送り込まれたが、特別な催眠術にやられたらしく彼の手下になってしまう。1人称は『僕チャン』。

 ・血だまり(ちだまり):正文が26階フロア中央付近で遭遇した血液の集合体。直径30センチほどで温度は20度。

 ・緑色の指、手、腕(みどりいろのゆび、て、うで):正文が27階~29階で遭遇した何者かの一部。どれも無傷であり、別に本体があってそこから切り落とされたというわけではない。


 ・半魚人(はんぎょじん):正文が31階で遭遇した、人間と魚が混ざった獣人のような存在。32階以降にも似たような存在がいる。

 ・キメラ:正文が35階で、人間と象が混ざった存在に遭遇した際、思いついた名称。

 ・36階のキメラ(さんじゅうろっかいのきめら):人間と混ざった動物の種類が1種類ではなく、最低でも6種類のキメラ。頭部はチーター。


 ・『彼女(かのじょ)』:誰かの記憶に出てくる女性。『オレ』のことを『しん君(くん)』と呼ぶ。

 ・『オレ』:記憶の主である誰か。『しん君』と呼ぶことを許しているのは、『彼女』だけ。

 ・45階のリアライザ(よんじゅうごかいのりあらいざ):人間と豚、さらに牛と鶏がいびつに混ざり合ったリアライザ。他の個体とは違い、精霊魔法『火炎魔球(ジグ・ドーラ)』を使う。


※ほぼ初登場順。
登場以降どうなったかはここで述べない。本編をお楽しみに!


□独自用語

 ・パラディソ・コウ(1):下野 幸三が催眠術師として活動していた頃の芸名。

 ・特別な催眠術(とくべつなさいみんじゅつ):下野が目覚めたという特別な能力。その詳細は不明だが、特殊能力を持つキルメーカー運営のエージェントすらも手下にできるという。

 ・ぼやけた光景(ぼやけたこうけい):正文が幼いころに遊んだ少年が出てくる光景。少年以外のすべてがぼやけており、場所の情報などはわからない。この中で少年は泣いており、正文に謝罪する。


 ・『蛇降ろし(へびおろし)』:蛇の力を自分の体に降ろして、自在に使えるようにすること。これにより正文は左目から視覚を捨て、代わりに蛇並みの嗅覚と熱感知(触覚の一部)の能力を得た。

 ・擬似的な視界(ぎじてきなしかい):左目が作り出す視界のようなもの。『蛇降ろし』で視覚を捨てたため、厳密には視界ではない。だが目という器官で感じたものを脳でどう処理するかという時に、この疑似的な視界に変換して感知する。疑似視界。

 ・死に戻りポイント(しにもどりぽいんと):人間としての『死』を食い尽くしたことにより、正文は普通に死ねなくなった。そんな彼が、敵に殺された後で蘇るところ。正文によると、白猫がいる場所がそうらしい。


 ・『ワープ』:瞬間移動。離れた場所から一瞬にして相手の背後に立つ、といったことを可能にする。この能力を使ったのは先に派遣されたアンチェインドだが、彼の能力というわけではないようだ。

 ・簡易眼帯(かんいがんたい):正文お手製の眼帯。コースターとふきん2枚で構成されている。右目をつむるだけではふとした時にまぶたを開いてしまうため、それを防ぐために作り出した。催眠術に対抗するための防具といえる。

 ・『フィスト』:甲03の特別な能力。自身の拳を通常ではありえないほどに巨大化させる。


 ・スタッフが詰める場所(すたっふがつめるばしょ):本来、『グランタワー・ウーノ・ペンディオ』には居住者に代わって家事をやってくれるスタッフがいる。そんな彼らが着替えや業務に使う場所。スタッフルーム。

 ・タブレットの動画(たぶれっとのどうが):11階以降の無人エリアに設置されたタブレットから流れる動画。その内容は、御堂が過去に演じた人物を彼女にもう一度演じさせ、その役柄ごと下野が犯すというもの。御堂に『パパ』と呼ばせるものもある。

 ・破壊された家具(はかいされたかぐ):何者かによって破壊された家具の残骸。通路をふさぐ障害物の役割を担う。


 ・『フィスト』(真価):拳を巨大化させるだけでなく、小さくすることもできる。実はこの『小さくする方』が重要で、殴った瞬間に拳を小さくすることで威力の伝わり方を制御できる。例として、壁に密着した標的のみを破壊し壁は傷つけない、といったことが可能。

 ・黒いシミ、黒い球体(くろいしみ、くろいきゅうたい):不安と恐怖に駆られた正文が、それでも必死な思いで進んだ後にできた何か。まずシミが生まれ、そこから球体が生まれる。特に球体は鉄でできている。

 ・『鉄球(てっきゅう)』:正文の新たな能力。壁や床に黒いシミを作り、そのシミから鉄球を召喚する。この鉄球は『鉄の性質を持った球状のエネルギー体』であり、本物の鉄を球体に加工したものではない。思いが重いほど威力と数が増す。


 ・『ナイン・ライヴズ』:『猫には9つの命がある』という外国のことわざを略したもの。

 ・高層階(こうそうかい):法律では6階以上を高層建築物としているが、『グランタワー・ウーノ・ペンディオ』においては40階以上を指す。

 ・記憶の流入(きおくのりゅうにゅう):正文が相手に鎖を巻きつけると、相手の記憶が正文に流れ込む。これは正文の意志では止められず、一度発生するとほぼ全ての感覚を持っていかれるため、彼は完全に無防備になる。鎖が触れただけでは発生しない。


 ・『リアライザ』:正文がキメラと呼んでいた存在の正式名称。その誕生にはキルメーカー運営が関わっているらしい。

 ・『火炎魔球(ジグ・ドーラ)』:異世界の力とされる精霊魔法の一種。炎を球状にして敵に放つ。

 ・鎖の眼帯(くさりのがんたい):簡易眼帯を紛失した正文が、自身の視覚を封じて特別な催眠術に対抗するため作り出したもの。何本かの鎖を帯のように束ね、頭部にナナメがけして右目を覆う。鎖は彼の能力なので、皮膚や髪を巻き込むといった事故は発生しない。


 ・サングラス:下野の特別な催眠術に対抗するため、キルメーカー運営が作り出したというサングラス。ある人物が装用する。

 ・パラディソ・コウ(2):催眠術師時代の衣装は、メキシコの伝統的な帽子ソンブレロやネイティブアメリカンの民族衣装を中心に、独自の改造が施されている。他にも魔術師が使うような杖を用いるなど、テーマに一貫性があるとはいいがたい。

 ・ソンブレロの飾り:下野がソンブレロに取りつけた何らかの飾り。人間を模したものなのか動物を模したものなのかすらも判然としない。


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ring.67 すべてが逆

ring.67 すべてが逆


正文は台車を押して通路を進む。
この台車は通常のものより大きく、台の面積もその分広い。

台の上には、手足が折りたたまれた甲03が載せられている。

(下野が復活することはないだろうけど、一応…な)

正文は、意識をなくしたままの甲03を、ステージ前から別の場所へと運んでいた。

(下野の体はほとんどが溶けてなくなった。ピンク色の液体になってしまった……頭から上半身あたりまでは残ったから、α7に言われた『首だけは残せ』って要件はクリアできた…はず)

ここで台車の車輪が音を発した。
絨毯が敷き詰められたエリアを出たのだ。

むき出しの床が続く先には、スタッフルームがあった。
この部屋で、正文は台車を無断拝借してステージ前まで押していき、甲03を載せて戻ってきたのである。

(さてと)

正文はスタッフルームに到着するとそのまま中に入った。
あらかじめくっつけておいた2つのベンチそばに台車を止め、甲03の体を持ち上げる。

「…しょ、っと」

ベンチに甲03の体を寝かせた。
その後で声をかけてみる。

「甲03」

「……」

何の反応もない。
甲03は目を覚まさなかった。

(しょうがない。48階には俺ひとりで行こう)

正文は甲03を残し、スタッフルームを出る。
搬入用エレベーターに向かった。

(そういえば…御堂とは初対面になるんだったか)

歩きながら、正文は自身の右手を見る。
手のひらから前腕の真ん中あたりまでは肌色だが、それ以降は下野の血が付着して赤いままだった。

(一応顔は洗っといたけど、服はそのまんまだ…スタッフルームに替えの作業着くらいあるもんだと思ってたけど、いやあったんだけど、俺が着れるサイズがなかった…)

「はあ」

彼は今さらながら、常人よりも太く大きな自分の体を恨む。

だがそれは長続きしない。
正文は右手を下ろすと前を向いた。

(服が血まみれだって御堂に怖がられるかもしれないが、その時はしょうがない。ちゃんと説明すればわかってもらえるはず…別に持ち上げて運ぶわけじゃないんだし)

搬入用エレベーターが見えてくる。
と、正文はなぜか足を止めた。

(そういえば……甲03を持ち上げた時に、下野の血がスーツについたかもしれない。スーツが黒いから忘れてたぞ)

彼は、目を覚まして自分に文句を言う甲03の姿を想像する。
やがて小さく苦笑すると首を横に振った。

(いやそれこそしょうがないだろ、いちいち服を脱いで持ち上げるなんて変だし。もし怒られたら謝ればいい)

正文は再び歩き出す。
下野を倒したせいか、その表情は今までになく明るかった。


正文は搬入用エレベーターで48階に上がる。
ついに最上階に到達した。

47階にステージが設置されていたように、この階も特別な構造だった。

(表札に『書斎』って書いてあるぞ…)

正文は、搬入用エレベーターに最も近い住戸の表札を、驚きの表情で見つめる。

(普通ならどっかの金持ちが住むはずだった1軒の家を、『ひとつの部屋』として使ってるってことなのか……!)

高層階の住戸はただでさえ広い。
下野は、そんな住戸1戸を1部屋としてあつかい、フロア全体をひとつの住戸に作り変えたのだ。

風呂やトイレ、フローリングのあるマンションに住めるとわかっただけで小踊りしていた正文とは、発想の次元が全く異なっていた。

「……」

贅沢を超えた贅沢を目の当たりにして、正文は呆然としてしまう。
自然と呼吸も浅くなる。

体が酸素不足を訴えてようやく、彼は我に返った。

「あっ、すう…はあ……」

何度か深呼吸をし、落ち着きを取り戻す。
自分がすべきことを思い出し、左目に意識を飛ばした。

(御堂はどこにいるんだ?)

においと体温から御堂の居場所を探る。

(…いた)

何枚かの壁を隔てた向こうに、御堂らしき人間のにおいと熱反応があった。
そこへ近づいていくと、視覚を担当する右目が『しずくのへや』と書かれた表札を見つけた。

ここも本来であれば、ひとつの世帯が住まう住戸である。
しかし下野は、個室として御堂にあてがったようだ。

正文はドアレバーに手を伸ばす。

(動画で見た限りじゃ、かなり深い催眠状態だった。下野が死んだことでそれがいきなり解けて、悪い影響が出てなけりゃいいけど…)

彼がドアを開けようとしたその時、レバーがひとりでに動いて手を弾く。
ドアは中から開けられた。

「!」

「!?」

御堂が外に出ようとドアを開けたのである。
ふたりははちあわせになった。

「くっ」

御堂があわててドアを閉めようとする。
正文はとっさに靴を隙間に差し入れ、それを防いだ。

「くそっ!」

御堂は悔しげに言い、ドアレバーから手を離して奥へ逃げる。
正文はドアを開けながら彼女に呼びかけた。

「助けに来たんだ! 俺はあんたを助けに来た!」

「嘘!」

奥から御堂の反論が聞こえる。
正文は玄関に進入しつつ言葉を返した。

「ウソじゃない! 命がけでここまで来たんだ!」

(命がけどころか何度も殺されたんだぞ!)

彼はのどまで出かかった本音を飲み込む。
事情を知らない御堂が聞けば、話を聞いてもらえなくなるとわかっていた。

(体調に問題はないみたいだけど混乱してるな。どうにか落ち着かせないと)

物音で御堂を刺激しないよう、正文はゆっくりと廊下を進む。
やがてリビングに続くドアまで来ると、声の勢いを落として彼女に語りかけた。

「俺は世の中のことにうとくて、芸能界のこととかよく知らない。だから申し訳ないんだが確認させてくれ。あんたは元女優の御堂 雫だよな?」

「……そう、だけど」

御堂が意外そうな声で質問に答える。
自分の名前を、11股逆寝取りというセンセーショナル極まるスキャンダルと並べて語らなかった正文に、興味を持ったようだ。

彼女の反応を受けて、正文は言葉を続ける。

「じゃあやっぱり、俺があんたを助けに来たってことに間違いはない」

「本当に? 本当に助けに来たの? あの殺し屋たちを追い払ったの?」

「…なんだって?」

「下にたくさんいたはずよ! 銃を持った殺し屋とか、なんか…わけわかんない化け物…とか……」

「アンチェインドとリアライザたちのことを言ってるのか? 確かに追い払ったというか、倒してはきたが…」

「じゃあ父さんには会った? 目立つ格好だから、会えばすぐわかると思うんだけど」

「父さんって下野 幸三か?」

「そうよ! 会ったのね? 父さんは無事なの? 私を守るって飛び出して、それっきり帰ってこなくて…」

「……」

正文は言葉を失う。
彼が知る事実と御堂の認識が、あまりに食い違っている。

だが正文はすぐに、ある可能性に思い当たった。

(まだ催眠術が解けてないのかもしれない。だったら下手に刺激したらまずい気がする。ここは話を合わせて…)

その時だった。
正文の後方で、玄関ドアが勢いよく開く。

「あーっ! ここにいたんですねえ、阿久津さぁん」

そう言いながら無遠慮に入ってきたのは、甲03だった。

「起きたら下野いないしい、知らないとこで寝てるし阿久津さんいないしでえ、びっくりしましたよお」

彼が発した言葉と物音が、御堂を強く刺激する。

「なに? だれ!?」

「あっ、御堂がいるんですかあ? じゃあさっさと連れて帰りましょお」

正文が止める間もなく、甲03はドアを開けてリビングに入った。
これに御堂は動転し、テーブルの上にあった鉈を手にとって構える。

「あ、あ…あなた、誰? 今、チラッと下野って聞こえたけど」

「下野ですかあ? 下野なら死にましたよお」

甲03は右手人差し指で、左肩越しに正文を指し示す。

「阿久津さんがすっごいがんばって殺したんですう」

「!?」

御堂は真っ青な顔で正文を見る。
唇をわななかせながら、かすれた声を吐き出した。

「ころし…た? 父さんを……?」

これに正文はすぐさま弁解する。

「御堂、落ち着いて聞いてくれ! あんたは下野の催眠術にかかって…」

「うわああああああああッ!」

御堂は半狂乱に陥り絶叫する。
何を思ったか、バルコニーに向かって走り出した。

(まずい!)

正文は右手から鎖を放つ。
鎖は一直線に飛んで、御堂の左手首に巻きついた。

(勝手に記憶を見ることになるが、この際仕方がな…)

「あああああああッ!」

御堂が右手に持った鉈を振り上げる。
それを見た正文は、強い口調で制止の声を放った。

「やめろ御堂! そんなもので俺の鎖は切れやしないッ!」

「ああああああああああ!」

御堂が鉈を振り下ろす。
その先は──

「ぎぃやああああああッ!」

──彼女自身の、左前腕だった。

「なにィイイイイイイイッ!?」

正文は、御堂の左前腕が床に落ちるのを見て絶叫する。
そしてここで、記憶の流入が始まった。

”雫先輩、あたし…あたしもう耐えられない”

気弱そうな女が抱きついてくる。
それはすぐに消える。

”思い上がりが運の尽きだぞ、御堂 雫”

傲慢そうな男が仁王立ちで笑う。
それもすぐに消えた。

見慣れない男女の姿と声が、正文の中に流れ込む。
右目の視界も左目が作る疑似視界も、現実を映さなくなる。

”せっかく今まで実績を積み上げてきたというのにな”

”あたしイヤだって言ったのに、無理やり…!”

”お前の女優人生は終わりだ”

声が語る内容には、直接的なつながりがない。
だが、その根底にあるものは共通しているようだ。

場面が切り替わり、薄暗く広い部屋に飛ばされる。
そこには裸の男が11人と、下着姿の女がひとりいた。

(まさか)

正文は気づく。

(御堂は後輩の女の子を守ろうとして、芸能界の暗部か何かに触れてしまった? それで薬を盛られて、11股逆寝取りのスキャンダルをでっち上げられた…そして)

”先輩、せめて楽しんでくださいね”

(最初から後輩の女の子もグルだった……そういうことなのか?)

答えが出ないまま、さらに別の記憶が流れ込んでくる。
まだ老いさらばえる前の下野が、慈愛の笑みを浮かべていた。

”お父さんのために作ってくれたのか、ありがとう”

下野は大事そうに両手で何かを持っている。

(これは!)

楽しげに踊る小人の模型だった。
正文はこれに見覚えがあった。

(ソンブレロにくっついてた飾りだ! 俺が壊した時は何かよくわからなかったけど、それは…時間がたちすぎて劣化していたから…!)

そして彼は、経年劣化という言葉が持つ真の意味に気づく。

(下野は本当に、御堂の父親だったってことなのか!? 催眠術で思い込まされたわけじゃなく…! じゃあタブレットの動画はウソ……?)

ここで記憶の流入が終わる。
正文は、御堂の部屋とは全く違う場所で目を覚ました。

(非常階段!?)

しかも階数表示から見るに1階である。
2階への階段には、家具の残骸が押し込められており上れない。

代わりに地下1階への下り階段が見えた。

(こんなの…前はなかったはずだぞ。何が……一体何がどうなってるんだ…!?)

家具の残骸は正文の周囲にも及び、下り階段以外に進む道はない。
彼は仕方なく階段を下りていった。

下り階段は地下2階で終わる。
そこは駐車場だった。

車は1台も止まっておらず、離れたところにピンク色の何かが見える。

(異臭がする…)

不思議なことに、その異臭はどこかで嗅いだことがあるような気がした。
正文は周囲を警戒しつつ、ピンク色の何かに近づく。

(し…下野!)

コンクリートでできた床に、裸の下野が大の字で横たわっていた。
股間を中心として、ピンク色の液体が広がっている。

中心地を含むほとんどの部位が隠れるほど、液体の量は多い。

(わかったぞ。これは、血と精液だ……そのふたつが混ざってピンク色になったんだ)

よく見ると、下野の周囲には何やら魔法陣のようなものが描かれている。
詳細を確認するためかがもうとした時、背後から声をかけられた。

「阿久津さぁん、すいませえん」

甲03である。
謝罪の言葉を聞いて、正文は振り返った。

「甲03…」

「本当にい、ごめんなさあい」

二度の謝罪が、正文の表情をやわらかなものへ変える。
彼は穏やかな口調で甲03に話しかけた。

「きっと、悪気はなかったんだよな。御堂はどうなっ」

「先に謝りましたからねえ」

何かが破裂する。
いや、それに似た音がした。

「え…?」

正文の体から力が抜ける。
みるみるうちに、目の前が真っ暗になった。

闇しか見えなくなった中で、甲03の声が聞こえる。

「ボスの命令なんでしょうがないんですよお。おつかれさまでしたあ」

正文は甲03に撃たれた。
包帯が巻かれていたはずの左手には、拳銃があった。


~第2部終了~

→ring.68へ続く

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